き っ と そ こ に い る


 そう言えば、とカミューが声に出して呟いたのは夜も更けた頃。
 冬の夜は長く、ふと気付けば外はもう真っ暗で、構わずに忙しく過ごしているといつの間にか眠気が忍び寄ってくる。しかし常には肌寒さから眠気どころの話ではない筈が、この夜に限ってはデュナンの湖から、湿気を帯びた暖かい空気が忍び寄ってきて実に心地良く、カミューとマイクロトフは淡い蝋燭の灯火が赤く室内を照らす中、いつになく長々とワインを酌み交わしていた。
 マイクロトフはなんだと顔を上げた。するとカミューは目を閉じて人差し指を立てている。その指先は僅かにくるくると円を描いていた。何かを思いだそうとする時にカミューの取る仕草だった。
「どうした」
「確か……えーっと」
 中々思い出せないらしい、首を捻ってカミューは顔をしかめる。
「ええと、確かそう……『妖精』だ」
「なに?」
 ぱちんと指を弾いて顔を上げたカミューの言葉に、今度はマイクロトフが怪訝に顔をしかめた。先ほどまでの会話の中からその言葉に繋がるようなものは何ひとつなかったはずで、その脈絡のなさに戸惑う。すると目前の琥珀が楽しげにゆるりと細められた。
「覚えていないか、ワイン祭の夜のことさ」
「ワイン祭……と言ってもな」
 毎年マチルダでは初夏から晩秋にかけて各地で大なり小なりワイン祭が行われる。ロックアックス周辺では年の瀬頃に、収穫の女神の像を飾り立てて祝う盛大なワイン祭があるが、他にも小さなものであれば月に一、二度はあった。カミューがそのどれのことを言っているのか分からずマイクロトフは首を傾げた。
「分からないか? わたしが騎士隊長になる前の事だよ。街道の村へ行くと折り良くワイン祭の真っ最中で、屋台や大道芸が沢山きていた」
 言われてマイクロトフは過去の記憶を探り出す。そう言えば今よりずっと若い頃にカミューと二人で年末、街道の村へ出掛けた事があった。
「おまえが馬鹿ほどワインの試飲をした時か」
「馬鹿はひどい。あの年は当たり年だった。美味いワインがただで飲める手を逃す方が馬鹿だろうに」
 マイクロトフの言葉にさして気分を害した様子もなく、カミューはくすくすと笑って目を伏せた。地方の町で開かれるワイン祭の多くは、その年に作られたワインを無料で振舞う事が多い。この時ばかりは人が大勢集まって、昼から幾らワインを飲んでも咎められはしないのだ。機嫌良く楽しく、屋台の料理を頬張りつつ大道芸人をひやかすのが醍醐味だ。
 今やマイクロトフは当時の事をすっかり思い出していた。目の前で微笑むよりも少し若々しいカミューの顔が思い浮かぶ。そう、あのワイン祭の夜にカミューは信じられないほどワインを飲んだのにちっとも顔色を変えず、次はあれが食べたいだの、あの大道芸はつまらないだのと散々マイクロトフを引っ張りまわしてくれた。
「思い出したぞ。おかげであの夜は結局あの村出身の騎士の家に泊めてもらう羽目になったな」
「そう。男所帯のむさ苦しい家だったよ」
「馬鹿を言う……泊めてもらえなければ俺たちはあの夜凍えていた」
 年末、雪がちらちらと舞うのも日常の季節である。振舞われるワインも半分はホットワインだったような冬の日に野宿は無謀だった。その日の内にロックアックスまで戻る筈だったのが、どうせ明日も休みだと言って祭を楽しむ体勢に入ったカミューのおかげで夜中まで騒ぎの中にいたのだ。楽しくはあったがマイクロトフにしてみれば予定が狂うのは気に入らなかった。
「でも祭は夜通しのものなのだから、別段寝床に入る必要は無かったと思うがな」
 今更惜しむようなカミューの言葉にマイクロトフは苦笑を浮かべる。
「俺がそこまで付き合い切れんから休むと言ったら、待てと言って付いて来たのはおまえだろうが」
「そうだったか?」
「おまえはまったく、自分に都合の悪い事は忘れる奴だ―――それで?」
「ん…?」
「さっき『妖精』がどうとか言っていただろう。何の事だ」
「あれ、それは覚えていないのか」
「む?」
 マイクロトフは前屈みにテーブルに肘をついて、片手で顔を覆った。そしてうーんと考え込むが一向に『妖精』なる単語は出てこない。降参だと己の額を叩くとカミューが「覚えていなくとも無理はない」と笑った。
「些細な事だったから、覚えているわたしの方が変なのだろうな」
 そしてカミューは手の中のグラスを揺らしワインをくゆらすと立ち上った香りを、胸一杯に吸い込んで目を閉じた。
「あの日はあまりに愉快で、気がついたら夕暮れ時だったんだよな」
 その通りだった。常になくはしゃいだ珍しいカミューの姿が印象的だった。騎士団内にあっては冷静で微笑は絶やさないが大口を開けて笑う姿などついぞ見られなかった。今でさえマイクロトフがそばに居れば砕けた態度も取るものの、あの頃のカミューは態度は柔らかで親切でも誰に対しても一線を引いたようなところがあった。それがあの夜のカミューは、知人の目が無かったせいか、それともまったくの私事と割り切っていた為か、本当に楽しげに良く笑っていたのだ。
「良く晴れた日だったから、夕日がそれは綺麗でね。だが夕日で世界中が真っ赤に染まっていて、祭りで騒ぐ町の風景がその時だけ別の場所になってしまったみたいで、奇妙に居心地の悪い気分になったのさ」
「………そうだったか」
「そう。あの時の言いようの無い気分は忘れないな。そばに居たはずのおまえもまるで別人になってしまったんじゃないかと思えた程で、酔いも手伝っていたんだろうが、本当に見知らぬ世界に一人放り込まれたような心地だった」
 ふとそう語る琥珀の瞳が曇る。切ないようなそんな表情すら浮かぶほど、カミューは鮮明に覚えているのだろうか、しかしマイクロトフはそう言われても一向に思い出せなかった。しかしカミューはそんなマイクロトフに苦笑を浮かべて更に言葉を続けた。
「そんなものだったから、あの時わたしはつい間近にいたおまえの腕を掴んでいたんだ」
「俺の?」
「そうさ。すると腕を掴んだらおまえがどうしたんだとわたしの顔を見て、その目を見たらおまえが本物だと分かって……まぁ当たり前の事なんだが、安心した」
「そんなに酔っていたのか」
「さあ……でも夕日で真っ赤に染まった馴染みの無い町並みは薄気味悪かった。通りの辻の薄暗い場所に魔物でも潜んでいるみたいな気配を感じてな」
 気のせいには違いなかったが、とカミューは笑う。
「昼でもない夜でもない、その境目の世界はまるで幻想の世界のように奇妙じゃないか?」
「そうか……?」
「あぁ奇妙だよ。それでわたしはあの時おまえに言ったんだ。『夕暮れ時は魔物が出そうで嫌だ』とね。そうしたらおまえ、なんと言ったか覚えているか?」
 マイクロトフは黙って首を振った。全然覚えていないのだ。祭の日のことは覚えているしその夜にカミューと藁の山に身を埋めて寝たのも覚えているのだが、夕暮れとなると少しも出てこなかった。
 するとカミューは目を笑みに細めてまた人差し指をピンと立てた。
「マイクロトフが言ったんだ。『魔物じゃない妖精だ』とね」
「なに?」
「疑うなよ、本当にそう言ったんだからな。真面目な顔をして『赤色の妖精は遊び好きで、いつも他の妖精が寝静まってかわりに夜の妖精がやってくる時間になっても、瀬戸際まで居残っているから世界がこんなに赤くなるんだ』とね」
 そう言われてマイクロトフは漸く思い出した。幼い頃に読み聞かされた寓話である。『色妖精』とかなんとか、そんな絵本に描かれた話で、妖精は色によって個性があってそんな妖精たちがいるから世界は綺麗に色づいているのだとかそんな内容だった。
 そしてマイクロトフは思わず口元を押さえて呻いた。確かにそんなことをカミューに言った覚えがある。それがあのワイン祭の夜だったかと問われれば自信は無いが、今聞いた言葉は自分の言葉そのものだった。途端に羞恥心が湧きおこってマイクロトフはテーブルに沈んでいく。あの時分、カミューが騎士隊長を任ぜられる直前の話だからマイクロトフだって良い年だった筈だ。それがそんな子供向けの寓話を持ち出して語るなど、今ならば絶対にそんな事はしないくらい恥ずかしい言動ではないか。
「思い出したか」
「………む…」
 ちらりと見上げるとカミューはにやにやと人の悪い笑みを浮かべている。マイクロトフはまたがっくりと項垂れて唸り声を上げた。
「なんだ、照れてるのか」
「カミュー……どうして今頃そんな話を…」
「いや、このワインを見ていたらなんとなく思い出してしまって」
 そしてカミューは再びグラスのそこに残るワインを揺らした。赤い色がろうそくの灯火を受けて昏く光る。
「ワイン祭の夕暮れに、真っ赤な世界でワイン片手に赤い妖精の話だ。そして今手の中には赤ワイン……符号が合うじゃないか」
「だからと言ってカミュー…」
「良いじゃないか。実際あの時わたしはおまえにそう言われて、とても気分が良くなったんだからな」
 そう言ってカミューはグラスのワインを飲み干した。それからそのグラスをテーブルに置いて、沈んでいるマイクロトフの額に手を伸ばした。
「照れる必要は無い。子供騙しな慰めでも嬉しかったのだから」
 あの頃はまだ今のように甘い関係はなかった。ただ唯一の親友であるとは認めていたが、それでもカミューは嬉しかったと今言う。そしてマイクロトフの額を撫でて優しく微笑んだ。
「実はあの時以来、わたしの中で少しだけ世界観が変わった。そこら中にいるのかと思ったら何気に愉快じゃないか」
 何が、とは言わない。だがマイクロトフには分かった。
「マイクロトフの、この黒い髪にも瞳にもこっそりと青い奴が紛れている。真っ黒じゃないものな」
 そしてさらさらとカミューの指がマイクロトフの髪を撫でた。それからろうそくの灯火に目を移して眩しげに目を細める。
「あそこに昼の光に取り残された赤いのが踊っている。夕暮れを過ぎて帰り損ねたのが夜の炎だとおまえは確か教えてくれたな」
「ああ……そうだった」
 マイクロトフは身を起こして額から離れたカミューの手を取った。
「まったく、おまえこそ赤い奴の化身みたいな奴だな。宵っ張りで遊び好きだ」
「お気に召さないかな」
「いいや」
 そもそも彼は騎士団の赤。その長たる存在であった人である。苦笑を浮かべてマイクロトフはその手の甲を撫で、そしてそこに唇を落した。
「大好きだ」
「それはどうも有難う」
「言葉だけか、カミュー?」
 殊勝に礼を述べるのにマイクロトフは促すように問い掛ける。するとカミューは肩をすくめて小さく笑った。
「きっとまだそこら中に赤いのはいると思うが?」
「気にするな。蝋燭を吹き消せばいなくなる」
「なるほど」
 片手を捕らえたままじっと見つめてくるマイクロトフの言葉に、カミューは笑いを押し殺しつつ腰を浮かせた。
「それでは」

 ふっ、と蝋燭の灯火が吹き消され、色は掻き消えた。



END



作中の寓話の世界観は某SF作家の小説作品を参考にさせて頂きました。
大好きな小説なのです(神林長平著『プリズム』第四話「ルービィ」より)。

2002/12/03


第二問 文中で二人の語る「きっとそこにいる」ものはなんでしょう。それを英語にすると?

答えのスペルを半角小文字で、
quiz_10.htm
の「10」の部分と置き換えて下さい。

ヒント
ふぇありー

正解 fairy → 第三問

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