林 檎 の 香 り に 誘 わ れ て
ひゅうっと風が吹き抜けてカミューは首をすくめた。
冬、ロックアックスの土地ほどに雪の降らないこのデュナン湖地方では冷たい風ばかりが強くて、慣れない者には肌がひび割れそうな心地に襲われる。かっちりとした騎士服を着ているカミューの場合は、首から上だけがその冷たい風を浴びてしまう。彼は風から庇うように手袋で覆われた掌を額の辺りにかざした。
するとその掌の向こうに通りを埋める屋台が見えた。カミューはそのまま遠方を見やるような仕草でふむと頷いた。
目に鮮やかに映る赤い山は林檎だろうか。そう言えばそろそろ季節であるなと考えてカミューはすたすたとそちらに歩み寄った。屋台を切り盛りしているのは皺深い老人である。荷車を固定した形の屋台であるからには、この老人がはるばるこの林檎の山をここまで運んできているのだろう。
山の手前の林檎をひとつ手に取ってカミューはその重みを確かめてみた。ずしりとくるその具合は中々の品と思わせる。
「三つ頂こうか」
「まいど」
老人はその細い指でいくつかの林檎に触れると、その中から二つ選り分けて紙袋に入れた。そしてカミューの手の中のひとつと合わせて「九十ポッチだよ」と掌を差し出した。その掌にコインを落してカミューは小さな紙袋を受け取った。
そして林檎の二つ入ったそれを小脇に、片手に掴んだ林檎を手袋の指できゅっきゅっと磨くとおもむろにそれに噛り付いた。しゃり、と音がして白い果実が口の中に溶けていく。たまらずカミューはにこりと笑った。
「美味しい」
そんな元赤騎士団長の言動に何の感銘を受けたか、辺りにいた人々がそろそろと林檎の山へと手を伸ばす。それを背にしてカミューは弾むような足取りで同盟軍居城の私室へ向けて歩き出した。
ところが部屋に戻るとテーブルの上には籐籠があって、そこに四つもの林檎が積まれていた。カミューに見覚えがない以上は、これはひとつ部屋を共有しているマイクロトフの仕業だろう。
カミューは小脇に抱えた紙袋を見下ろして苦笑をもらした。かさりと紙袋から二つの林檎を取り出して籐籠の傍に置く。噛り付いたひとつはすっかり食べ切った後だったので、それ以上食べる気はもうおきない。まるで画家が素描をするための題材のようだと思ってくすりと笑った。
その時、今し方カミューが閉じたばかりの扉がかちゃりと開いた。おや、と思って振り返るとマイクロトフが顔を覗かせていた。
「マイクロトフ」
彼はカミューに気付いて「ああ」と手を上げる。
「いたのか」
「今戻ったところだ、おまえは?」
「俺も先ほど」
言いながら扉を閉めてマイクロトフは上着を脱ぐ。カミューはその言葉に首を傾げた。
「で、何処にいたんだ?」
「いやちょっと礼をな……」
「礼?」
「それだ……ん?」
マイクロトフはテーブルの上の林檎を指差しかけ、その数が増えているのに気付いて同じく首を傾げた。その様子にカミューが直ぐに笑って答えた。
「美味しそうだったから、つい買って来たんだよ」
あるのなら買ってこなかったんだけど、と言いながらカミューは籐籠の林檎に指先で触れた。
「これはどうしたんだい?」
「トニー殿に頂いたのだ。城の空き地で世話していた林檎の木が沢山実をつけたからと言ってな。それでその礼を今してきた所だ」
「なるほど」
タダかぁ、お前もやるなぁ。などと呟いてカミューは笑う。
「それにしても沢山だな。これはただ食べるよりも色々と工夫して食べたほうが良さそうだな」
「工夫? 煮たり焼いたりということか」
「それも良いけど、うーん、ウサギに皮を切ってみるとか」
「…………」
沈黙が降りた。マイクロトフは呆れてどう答えれば言いものやらと惑ってただ黙ってカミューを見やる。すると彼はふいっと視線を逸らして指先をぱちんと鳴らし、おもむろに口を開いた。
「どうでも良いが、わたしは林檎を砂糖で煮る時のあの匂いが駄目でね。完成品は好きなんだが……」
カミューはやたらとまじめ腐った顔でそう語りだす。
「コトコトと何時間も煮るだろう? 部屋一杯にあの甘いような酸っぱいような匂いが充満して胸が苦しくなるんだよな。だがレディによってはあの匂いがとても良いとか言うのだから分からないものだよなぁ」
そしてカミューは林檎をひとつ掴み上げてその艶のある皮に己の瞳を映した。
「だから煮るのは却下だな。焼くのもオーブンがあればこそ、そうした方法は専門家に任せるべきだ」
こんなに林檎が溢れているのならそのうちハイ・ヨーのレストランで特別メニューが出るだろうとカミューは見当をつけてひとり頷く。
「まぁ、だから個人的に出来る工夫と言えば切り方を変えたりするくらいじゃないか?」
「…分かった。良く分かったからカミュー……」
己の沈黙がカミューに与えた不快はいかばかりか。子供じみた言葉の遣り取りにマイクロトフは慌てて待ったをかけた。
「とにかくせっかくもらった物だ。無駄になどせずに頂こうな」
「当然だよ」
なんのかんのと言って旬の盛りの果実ほど美味いものはないし、林檎は好きなもののひとつだ。若い頃などロックアックスの土地柄か安価で大量に入手可能なこの大振りな果実は、空腹時には絶好の癒しとなったものだった。
「とりあえず、一日ひとつずつ食べれば新鮮なうちに腹に収まるかな」
にっこりと笑いつつ、カミューは持っていた林檎の実をくるくると掌の中で転がした。ところがそこへ鈍くノックの音が響いて、マイクロトフがなんだと振り返る。
「おーい、いるかぁー」
フリックの声だ。何事かとマイクロトフが扉を開ければそこには大きな籠一杯の林檎を抱えた青年が立っていた。そして山と積まれたその林檎の向こう側から弱々しげな声が届く。
「頼む、助けると思って林檎を貰ってくれないか」
「ど……どうしたんですか」
ひとまず扉の前にその籠を置き、フリックはやれやれと膝に手を着いて息をつく。それから実はと語り出すには、交易所のゴードンが手違いで予定していた十倍の林檎を買い付けてしまったらしく、顔見知りだからという理由だけで偶々通りがかったところを押し付けられたらしい。運が良いのか悪いのか、タダ同然の値段で買い受けてしまったと言うのだが、到底ひとりでは食い切れない量のために方々を訪ねて譲り歩いているのだと。
「それはそれはまた……」
同情すべきかどうか悩む半端な状態に流石のカミューも言葉をなくす。その隣でマイクロトフもむぅと唸った。既に林檎は充分なほどにあるのだが、さりとて無下に追い返すには備えた礼節がそれを許さない。
「ひとり三つで良いんだが」
「……わたしが三つにマイクロトフが三つですか」
「ああ、頼む」
フリックの弱り果てた懇願に、二人とも快く引き受けるしかなかった。
そして籐籠を取り囲むようにまたごろごろと増えた赤い実に、カミューもマイクロトフもどちらからともなく苦笑がもれて、次第にそれは大笑いへと発展した。
「いや参ったね」
「ああ、全く」
「とりあえず、さっそくひとつずつ頂こうか?」
「そうだな」
林檎をひとつずつ。
そしてその暫くの後の事。林檎二個分が綺麗に切り分けられて皿に盛られたわけだが、そのうちの幾つかはカミューの手によって芸術的なまでに皮が切り取られ、ウサギのように見えなくもないものも幾つかあったという―――。
END
2002/11/25
第一問 二人の手もとに残った林檎はいくつ?
答えの数字を半角で、
quiz_xx.htm
の「xx」の部分に当てはめて下さい。
ヒント
カミューは林檎を3つ買って、そのうちの1つを食べました。
マイクロトフはトニーから林檎を4つ貰いました。
それから2人はフリックからそれぞれ3つずつ林檎を貰いました。
そして1つずつ食べました。
正解 10 →
第二問
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