床に倒れ込んだカミューを、マイクロトフは虚ろな眼差しで見下ろしていた。
深夜、ロックアックス城奥深くでの悲劇は静寂に満ちていて、それはその情景にあまりに不似合いな静けさだった。そしてその只中にある男の手から小さなナイフが滑り落ち、刃がカランと甲高い金属音を立てて床を転がった。
その音と同時に、無感動だったマイクロトフの足が動く。
そしてそのまま立ち去ろうとするのを、奇妙な抵抗が足を捕らえて許さなかった。なんだろうと、言いたげな瞳でマイクロトフは自分の足を見下ろす。その耳に、静寂を破る掠れた声が引っ掛かった。
「ふ…ざけるな……」
掠れた声が足元からのぼる。見下ろすと、マイクロトフのブーツを鷲掴みにしているのはカミューの指だった。
「このまま……行かせるか…っ」
喉で荒く息をして、蒼白な顔の青年はゆらりと身を起こす。マイクロトフの足に縋りながらもゆっくりと膝を立て、手をつき、マイクロトフの服を掴み締め立ち上がろうとする。
「わたしを……見くびるなよ…マイクロトフ……」
そして震える膝を叱咤して立ち上がり、圧し掛かるようにマイクロトフの胸倉を掴むと、片手は今も血の流れ出す傷口を強く押さえたままカミューは強い眼差しで睨み付けた。
「マイクロトフ―――違えるな…わたしは……わたしだ…」
「………」
皺がよるほど強くマイクロトフの服を握り締めるカミューの手は、小刻みに震えている。それでもいつものように、いやそれ以上にゆっくりと言い含めるように吐き出される静かな声。しかしそこに若干含まれる切なさは、それまでマイクロトフが聞いたこともないような響きをしていた。
「おまえが……」
訴えるような、願うようなその響きに、マイクロトフの身体中の血が激しく騒ぎ出す。
「…俺……が…?」
誘われるように呟いたマイクロトフに、カミューは薄く微笑んだ。
「あぁ、おまえが、愛してくれた……わたしだ…―――」
ぜい、と大きく喉が鳴る。そして一転して泣きそうに歪められたカミューの秀麗な顔は、刻一刻と青ざめ血の気が失せてゆく。それでも青年は搾り出すように更に言葉を繋げる。マイクロトフの耳に届くように、その心に確かに響くようにと願いながら、その目を見詰めながら。
「マイクロトフ…おまえを愛している……わたしだ…。偽者などで、あるものか……本物だ…」
視線を絡めた琥珀の瞳は雄弁に語る。それを正面から受け止めるマイクロトフは、ごくりと喉を鳴らし顎を反らせた。
「カ…ミュー……」
喘ぐように開いた口から、掠れた声が漏れる。
「わたし…だよ……」
どくり、と脇腹から血が溢れる。まるで言葉を伝えるための代償にその身を切り分けているかのような錯覚をもたらし、その痛みに喘ぐ。喘ぎながら、それでも詰め寄って間近にマイクロトフの目を睨み上げた。そして震える指先でその襟元を掴み締めながら眉を顰める。
「良く…見ろよ」
馬鹿、と小さく付け足してカミューは泣き笑いの表情で俯いた。
そしてそのまま、絶え切れない様子で肩を落とし、再びずるりと崩れる。だが今度は反射的にマイクロトフの手が伸びて、倒れそうになったカミューの身体を確りと支えていた。
「カミュー」
それまでの虚ろだった声とは違う、少しだけ生々しさを取り戻したマイクロトフの声に、沈みかけていたカミューの意識がもう一度浮上する。
「…マイ…クロト……フ?」
腕を確りと掴まれ引き上げられるような感覚に、カミューは閉じていた瞼を薄らと押し上げた。そしてそこに、確かに自分を真っ直ぐに見詰める黒い二つの瞳を見つける。
あぁ、と切ない吐息がカミューの唇から零れた。
探していたのはこの瞳だったと、意識の底の方で思った。
ずっと、ずっと探していたんだ。この真摯な偽りを映さない瞳を、赤い花の向こうにずっと探して待っていた。再びこうして直視できる日を強く願っていた。
「マイクロトフ…」
涙がこみ上げて、喉が震えるのをカミューは自覚した。同時に、腹立ちも覚える。
「心配させてくれたものだ……」
愚痴るように吐かれた言葉は、きつい眼差しと共にマイクロトフへと向けられたものだった。友愛とか恋情とか、そんな感情を飛び越えた、純粋な個としての混じりけの無い言葉だった。
「これだから…おまえは、目が離せない……どこまで、わたしに…無理を強いれば済むんだ……この、馬鹿者……―――」
苦笑が、蒼白な唇に浮かぶ。カミューの手が、ぐっとマイクロトフの肩を掴んだ。そして小さな掠れるような声が、耳奥へと囁きかけられた。
「それでも―――マイクロトフ……おまえを…失いたくない……」
震える手が、あるかなしかにマイクロトフの肩を叩いた。
「愛しているよ」
微笑みが、白い顔を彩る。そしてそのままカミューは、ちょっと困ったなとでも言いそうな苦笑を浮かべて、再びずるずると床へ身を沈ませたのだった。
「愛しているよ」
その微笑みは、妖花の浮かべたそれとはまるで違う微笑みだった。散々見せつけられた媚びるような、縋るような表情は微塵も無く、ただただ奥深い強さを秘めた笑みだった。何ものにも左右されない明確な意志を秘めたそんな笑みは、生半には浮かべられないだろうとマイクロトフは漠然と思った。
カミュー。
呼びかける声が震えて、それははっきりと音を成さなかった。
凍りついてままならない視線が捕らえたその情景は、いったい何を映したものなのか。カミューのその脇腹に当てられた手の下から、じくじくと流れ出しているものは一体何だと言うのか。
「……な…」
唇がわなないて言葉が上手く紡げない。
そのうちに肩を掴んでいた青年の手が力を失い、縋るように凭れかかって来ていたその体がずるずると足元へと倒れ込む。そのさまを、マイクロトフは呆然と見詰めるばかりだった。
「カ………」
舌が強張る。喉が熱く乾いて首の後ろが痺れる。
刹那、真白な閃光が目の前で弾けたような気がした。
「あ……」
慄然として背が粟立つ。
小刻みに震える両手で顔を覆う。
続けて炸裂する記憶の欠片たちに打ちのめされ、マイクロトフはよろりと一歩後ろにりそのまま目を瞠った。
「俺は……―――?」
正気を取り戻す。まさにそんな言葉が相応しい瞬間だった。焦点を結んだ黒い瞳がとらえたのは、鮮血に濡れるカミューの姿であり、マイクロトフはこの現状を導いた己の所業を全て正確に把握する事が出来た。出来たが故に、凄まじい苦悩がその全身を支配する。まるで雷に打たれたかのような衝撃が脊椎を突き抜け、マイクロトフは呻き声にも似た苦鳴を喉の奥で蟠らせながらその場に膝をついた。
「カ…ミュー……っ」
名を呼ぼうとした。だが途端に息苦しさに支配されてマイクロトフは胸を掻き毟った。
「……ぐ…」
目の前ではカミューが荒い呼吸を繰り返し、ずっと脇腹を押さえている。一刻も早く医者に見せるべきなのだと、そこから流れ出した血の量からうかがえる。しかしマイクロトフは胸から喉をせり上がるものに、激しく咽かえった。
ゴホッと、大きく咳き込んで初めて、それは出た。
真っ赤な花弁が両手をついた床へと零れる。それを、驚きに目を瞠ってマイクロトフは見た。更に喉を圧迫するそれに何度も咽る。
花弁は次から次に口から吐き出され床の上へと積み重なっていく。しかしそれは空気に触れるなり鮮やかさを無くし、どれもが茶色く変色して褪せて、艶を失い萎れていくのだった。
「…な……んだ…これ…はっ」
花弁と一緒に透明な粘液も吐き出され、そこから甘い香りが立ち上り消えて行く。それは実は、マイクロトフがかつて妖花に取り込まれた時、幻覚を見せた原因となる妖花の蜜だった。それが今、信じられぬほど大量に喉の奥から出てくる。
「…マイクロトフ……?」
見れば苦しげながらも薄らと目を開けたカミューがマイクロトフと、吐き出される花弁を見て呆然としている。
「カ…あ……!」
一際大きい衝動に喉を詰まらせてマイクロトフはそれを吐き出した。途端に身体中を覆っていた妙な倦怠感が、氷が溶けるように消えて行く。同時に靄がかっていた思考も明瞭に晴れていく。
それから何度か小さく咳込み、口を拭うとマイクロトフは奥歯を噛んだ。
「畜生!」
鋭く叫んでカミューの身体を抱え上げた。触れた身体は温もりがある。しかし見える顔色や指先は白く色が無い。夢中で扉を開けるとカミューを確りと抱えたまま走った。途中で、血だらけの二人を見た騎士がぎょっと目を剥く。それにマイクロトフは鋭く命じた。
「医務室へ行って、早急に医師に手配をさせろ! 深い刺し傷で出血が酷い!」
「…はっ!」
一瞬呆然とそれを聞いた騎士だったが、直ぐに慌てて踵を返して走り出す。その後をマイクロトフも追う。今はただカミューの重みだけが突き動かしていた。でなければ妖花の花弁を激しく吐き出したその衝撃と疲労に立てもしなかったに違いない。
騒ぎに何事かと駆けつけた城内の騎士たちも、驚きながらも緊急事態なのだと感じ取り医務室への道を開ける。そして辿りついたそこには報せを受けた医師が待っており、マイクロトフからカミューの身を引きうけた。
「マイクロトフ様!」
赤騎士も青騎士も、白騎士の姿も見える。その中から青騎士団の副長を見つけマイクロトフは彼を呼び寄せ医務室から足早に離れた。背後で医務室の扉が閉じられ、医師の緊迫した声が何か叫ぶのが聞こえたが、構わず突き進んだ。
「一体何事があったのですかマイクロトフ様!敵襲でありますか!」
「違う」
猛進するマイクロトフの後を、赤騎士団の幹部たちも追ってくる。
「マイクロトフ様!カミュー様はいったい…!」
「俺が……」
執務室から随分と離れた頃には、もうついてきているのは青騎士団の副長と、赤騎士団の幹部だけだった。そこに来て漸くマイクロトフは足を止め、血に塗れて赤く染まった両手をあげ、顔を覆った。
「俺が刺した――― 俺が…」
マイクロトフが苦しげに吐き出した言葉に、静かな衝撃がそれを聞くもの全員に伝播した。
「……マイクロトフ様…」
副長のうろたえたような声があって、赤騎士たちはハッと我に返ったように来た道を駆け戻る。その後姿を見送って、副長は眉根を寄せ自団の団長を見た。
所々血に汚れ、両手で顔を覆ったまま微動だにしないマイクロトフ。その指の隙間から見える瞼はきつく閉じられ、顔の皮膚に食い込むような指先は細かく震えていた。その指が次第に折り込まれ、拳が作られきつく握り締められる。
「………」
一瞬垣間見ただけで、その怪我の具合は良く見て取れなかったが、副長はカミューが助かってくれる事を切に願った。
固まったままぴくりとも動こうとしないマイクロトフを、副長が何とか青騎士団長の執務室へと連れて行った。そうして見守って数時間―――静かに扉を叩いた赤騎士によって、マイクロトフは医務室へと呼ばれた。
そして医務室の前で、感情のうかがえない表情をした赤騎士団の副長に、黙って扉を指し示され、マイクロトフは取っ手を握った。
これは、数日前マイクロトフが城へ帰還した時とまるで逆の立場だ。あの時はカミューが医務室の扉を開けた。その時、いったいどんな気持ちだったのだろう。今のマイクロトフとどう違うのだろうか。
マイクロトフは一瞬の躊躇いの後、扉を開けた。
「マイクロトフ」
入るなり、静かな声が耳に届いた。医師の姿は見えない。ただ奥の方から布が擦れる音が聞こえ、マイクロトフは素早くそちらを向いた。
「カミュー」
医務室の真白なベッドの上で、彼は上半身を起こしていた。
真っ直ぐにこちらを見ている。その微かに青白い顔が、見慣れた微笑を浮かべる。
「なんて顔をしているんだ。ほら…来い」
真白な腕が伸びて、マイクロトフを招く。そして、まるで糸に引かれるようにマイクロトフは歩み寄った。その頬を、カミューの指先が触れる。
「今にも泣きそうじゃないか、マイクロトフ」
本当に馬鹿な奴だなぁ、とカミューはそのままマイクロトフの髪を撫でる。その腕の下―――脇腹にはまっさらな包帯が幾重にも巻かれている。それを見てマイクロトフは顔を歪めた。
「…大丈夫……なんだな?」
漸くそれだけ言えた。
するとカミューはにっこりと笑って頷いた。
「あぁ。大丈夫、わたしは死なないよ」
くしゃりとカミューの手に髪を掻き乱される。途端に足から力が抜け、そのままベッドの傍に膝をついてカミューの手を握った。
「カミュー……!」
「安心したかい?」
からかうような声に、マイクロトフは奥歯を噛んでカミューを見上げた。
「俺は…っ!」
「わかっている―――」
怒鳴りかけて、目の前にあった微笑に言葉が詰まる。
「おまえが心配してくれたのが良く分かっていた。おまえなら…わたしの知っているマイクロトフなら絶対に心配してくれるだろうからね」
わたしがおまえの心配をしたように。
小さな呟きが付け加えられて、マイクロトフは俯いた。その髪に、再びカミューの指がさし込まれる。
「それから自分を責めるだろう事もね。あぁ、ほら」
カミューの手がマイクロトフの手を開き、強く握り込んだために爪が傷付けた掌をそっと撫でた。
「…あれは、事故だよ」
「カミュー!」
「部下たちにもそう言ったから、今さら撤回は出来ない。マイクロトフ、おまえは妖花の被害にあったんだ……わたしがこんな傷を負ったのは、その弊害に過ぎない」
だから、とカミューはマイクロトフの頬をとらえて上向かせると微笑んだ。
「自分を責めるな」
「だが俺は!」
「おまえが無事に戻った…今はそれだけで充分なんだよ」
そして、不意にカミューの顔が歪んだ。
「これ以上、心配も憂鬱もごめんだからな……またぐだぐだ悩んでわたしを悩ませてくれるな」
「カミュー」
くすり、とカミューから笑みが零れる。その笑みが、昔のままのように見えながらも、少しだけ違う気がした。
「なあ、マイクロトフ。もう一度、今度はちゃんと聞かせてくれないか」
「……?」
「城に戻ってからの事を…覚えているんだろうな?」
「あ…あぁ」
問いかけるカミューの笑みが、微妙に色気を含んでいるように見えてマイクロトフはうろたえた。
「ならまた言ってくれ。昨日わたしに告げた言葉……言ったろう?」
「き…のう……」
「わたしを抱いたじゃないか」
「カ…ッ!!」
途端にマイクロトフの顔に血が上る。耳まで真っ赤になって、そこをカミューの指が摘んだ。
「カミュー!」
ところがカミューは穏やかに微笑んだまま、またマイクロトフの髪を撫で、頬に触れた。
「ほら、言ってくれ」
重ねて請われ、マイクロトフは喘いだ。
「だ、だが…」
「良いから―――」
良く見ると、唇は笑みに彩られているのに、目の前の琥珀の瞳は決して笑っていなかった。その真剣な眼差しにマイクロトフも唾を飲み込んだ。
「す……好きだ」
苦しかった息を吐き出すように言った。
「ずっと…好きだった。カミューを愛している」
言い切って、マイクロトフはまた唾を嚥下した。カミューはじっと目を開いたままそんなマイクロトフを見ている。
「カミュー…」
その沈黙が辛くて、何か言ってくれと願った時、カミューの瞳が和やかに細められ、薄く潤んだ。
「有難うマイクロトフ。わたしも―――」
―――愛しているよ。
優しく頭を抱き寄せられ、マイクロトフはそんなカミューの小さな返事を聞いた。
「あぁ、それから」
耳元でカミューの声が響く。
「おかえりマイクロトフ」
マイクロトフは、自分の顔が泣き笑いに歪むのを自覚した。
「あぁ…カミュー」
―――ただいま。
END
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一万ヒット有難う御座いました(笑)
しかしやはりこの企画はやって良かったと思います
本当に長くかかってしまいましたが、その分皆様と長くお付き合いできました
なし崩しに未完のまま終わらなくて本当に良かったです
サイト設立時、一万ヒットの時、一周年、そして今
変わらず青赤を書けて良かったですよ〜
当初の目標『鬼畜青を書く』には到底遠い仕上がりになりましたが
所詮ほのぼのサイト…笑って許してください
あと…お気付きの方もおられるでしょうが実は複数エンドの内二つに隠しリンクがあります
是非ともお探し下さいね〜(反転なんかして頂くと良い感じ)
2001/06/10
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