つきたちの花


 一日の執務が終わると、カミューは城内の私室に足早に戻って花瓶の水を変えるのが日課となっていた。
 ことりと花瓶を窓辺に置くと、しばらくそれを眺めている。
 日を追うごとにその眺める時間が長くなっている事にカミュー自身は気付いていない。ただ揺ら揺らと風に揺れる赤い花を眠くなるまで―――実際には意識を保つのが難しくなるまで、呆然と眺めているのである。
 なんの変哲も無い、容易く入手できるその花は、今はたったひとつ鮮明に友の笑顔を思い出せるきっかけなのだった。
「……マイクロトフ」
 ぽつりと名を呟いてみると、今しも返事が返って来そうなほど記憶は鮮明であり、だがそれだけ不在の虚無感はカミューを遣る瀬なくさせた。
「何故帰って来ないんだ。枯れてしまうじゃないか」
 あの日、マイクロトフが出立する時に枯れさせないと約束したのに。
「わたしを約束を破る男にさせるつもりなのか……」
 そこにいない者を責める言葉を、空に向かって吐き続ける事ほど虚しいことはない。だがカミューは赤い花の向こうに見える親友の笑顔が浮かべば浮かぶほど、それをやめられなかった。
「待っているのに」
 そうしてぐっと拳を握り締めると、朝方自分で打ち付けた箇所が鈍く痛んだ。
「……痛いじゃないか」
 拳を胸まで持ち上げると、片方の手の平で覆った。そこからじんじんと伝わってくる熱が、何故だかまた親友を思い出させてカミューは息を詰まらせる。
 泣きそうだ。
 もうこれほど脆くなってしまって、今にも泣き喚いて親友である男を探し求めて飛び出してしまいそうだった。カミューは自身の拳を胸に抱きこむと、窓辺に片手をついて目を瞑った。
「白状するから…マイクロトフ」
 友情などと生易しい感情などではなく、もっと強い浅ましい感情でおまえを想っていると、そう白状してやるから。
「だから帰ってくるんだ。そうでなければ二度とおまえにはわたしの本当の気持ちなど教えてやら無い。今しか…こんな今しか言ってやれないんだ、わたしは……」
 何処までも身勝手な自分の性格は自覚している。
 こんな風に脆くなっている時しか、素直に弱音を吐けない事も分かっている。
 親友が、自分と同じくらい強い想いを込めた眼差しで見詰めてきているのを理解していながら知らぬ振りをして来た事も、今なら素直に認める。
「だからマイクロトフ…っ」
 悲痛な叫び声が漏れて、ぽたりとひと雫だけ涙が零れ落ちて、真下にあった赤い花弁を濡らした。





 深夜、ふとした気配でカミューは目覚めた。
 ここ数日心労で不眠が続いているためか、眠りが浅いのだ。そろり、と身を起こすとカミューはベッドの脇に立てかけているユーライアを手に取った。だがベッドを降りて立ちあがるなり眩暈に襲われて足許がふらつく。
 こんな時に物音に目覚める己が嫌になり、だが確かめずにはおれない剣士としての己がまた嫌になる。何もかも嫌だという気分で、カミューはユーライアを握り直したが、手に馴染んでいるはずのそれはひどく重たかった。
 もっとも、この城の奥深くにある赤騎士団長の私室に、そうそう不審者が潜り込んで来る筈も無いのだが、用心は欠かせなかった。カミューは閉じられた扉に手を触れて寄り掛かると、そっと向こう側の気配をうかがった。
「誰か…いるのか?」
 小声の誰何の直後にカタン、と小さな物音が響いた。そして―――
「カミュー?」
 その密やかな声にカミューは驚愕し息を飲む。
 まさか、と呟いて勢い良くその扉を開けてその向こうに踏み出すと、勢い付いた足がよろめいて二歩、三歩と床を踏む。軽く息を付いて漸く顔を上げると、はたしてそこにいたのは青騎士団長だった。
「マイクロトフ…」
「起こしてしまったか? 帰りが遅くなって済まんな、ただいま」
「……おかえり」
 ぼんやりと答えてカミューはハッとする。
「って、おい!」
「ん?」
 身体ごと向き直った男は手に花瓶を持っていた。そして、どこから持ってきたのかテーブルの上に置かれたランプの灯りで良く見えるように揺れる赤い花を覗き込んでいたらしい。その表情はひどく安らいでいて穏やかだ。
 しかし、それがカミューの顔をまじまじと見つめた途端、不安そうなものに変わった。
「カミュー…どうしたんだ。病気か?」
 性急な動作で花瓶をテーブルに置くと、足早に歩み寄ってくる。そうして伸ばされてきた手をカミューは慌てて押し留めた。
「カミュー?」
「マイクロトフ…おまえ、今までどこに…」
「さっきまで自室にいたが、この花が気になってな」
「違う!」
 惚けた返事についカミューは鋭く叫んだ。
「この五日間、いったい何処に行っていた!」
「ミューズだ」
「ミューズ…?」
「あぁ、休憩に立ち寄った村で例の花売りの娘に偶然出会ってな。ミューズの親戚の元へ行くところで賊やモンスターがいて大変だと言うから送ってきたんだ。国境付近の安全な場所まで送るはずが、質の悪い賊に出くわして征伐していたら遅くなった」
 男のあっさりとした返答にカミューは脱力を余儀なくされた。思わず床に膝を付いてユーライアに縋る。
「カミュー」
 驚いたマイクロトフが素早く脇にその手を指し込んで支えようとしたが、ここ数日の疲労も手伝ってカミューの身体はずるずると沈んで、座り込む形となってしまった。
「カミュー、どうしたんだ」
 立てたユーライアの柄に両手だけは絡んでいるが、カミューは深く項垂れた体勢で無言のままじっと動けず、マイクロトフの心配そうな声にも答える事が出来ないでいた。一言でも一動作でもすれば胸の奥から込み上げるものに支配されそうになっていたからだ。
「…カミュー?」
 行き場を無くしたらしいマイクロトフの手が、うろうろとさ迷っている。それが、ユーライアの柄を握るカミューの手の甲にふわりと添えられた。
「痛そうだぞ」
 ―――痣の上に温もりが広がった。
 その瞬間、カミューはぐっと深く身体を折り曲げた。
 どうしてこう、この男はやる事なす事カミューの感情を波立たせるのか。ついに溢れ出したものがカミューの全身を支配し尽くした。
「……馬鹿…じゃないのか…っ」
 我慢しきれなかった涙がボロボロと溢れ出て、嗚咽に声が震える。耐え切れず顔を上げると驚いた顔のマイクロトフがいた。
「か、カミュー」
「心配をしたんだ……おまえが…帰らなくて」
「いや、だが俺はミューズに行くと………ん?」
 しまった、と一言呟いて青騎士団長は片手で額を覆うと俯いて黙り込んだ。
「…言って…なかったか?」
 記憶を辿っているのか、確認するような口調にカミューは泣き笑いの表情になった。散々人に心配をかけて、騎士団中を騒がせておきながら何処までもマイクロトフらしい。
「青騎士の誰も、おまえの行き先を知っている者はいなかったぞ」
「………」
「だからここ五日間、おまえは行方不明扱いだった」
「なんだと!」
 カミューの手の甲に重ねられたままのマイクロトフの手が、驚きの声と共に力んだ。
「…ッつ……!」
 ズキン、と痛みが走ってカミューは身じろいだ。
「あ、すまん!」
 慌てて離れようとしたマイクロトフの手を、カミューはだがすかさずその痣のある手で掴んで捕えた。鈍い痛みと熱が手を覆うが、握り込んだ男の指先の方が一層熱い気がした。
「カミュー?」
「戻って良かった…マイクロトフ」
 そう呟いて男の手を握るそれに更なる力を加えた。すると、目前で男が膝を付く気配がした。
「その…随分と心配をかけたか……? すまない」
 不安そうに問うて来るのは、未だかつてこうしてカミューが心配を露わにしたことが無かったからだ。いつだって少し距離を置いた場所で余裕があるようにして見せていたのだから、マイクロトフが戸惑うのも無理は無い。
「あぁ、心配をかけたよ…沢山ね。わたしだけではない、青騎士団の連中など気の毒なほどだった」
「そう、か……」
「生半な処分では済まないだろうから、今から覚悟しておくことだな」
 笑ってそう言ってやると、マイクロトフは苦虫を噛み潰したような顔をした。しかし不意にその手が伸びて乱暴にカミューの目許を拭う。
「―――驚いたなカミュー」
「え?」
 ぽかんと問い返すと、男は何やら妙な表情を一瞬だけ浮かべた。
「おまえが泣いているのは俺のためか?」
 マイクロトフの声は震えていた。酷く押し殺したような話し方で、感情を抑えているらしいのだと分かった。
「あぁ」
 カミューは呟いた。認めてやると、そう誓ったばかりであったから、肯定は驚くほどすんなりと出てきた。
「あぁ、おまえのためだマイクロトフ」
「カミュー…それは」
 男は片手で赤らめた顔を覆って、ぐるぐると視線の先を辺りにさ迷わせ、うろたえているらしかった。
「俺は……その…」
 言葉を詰まらせるマイクロトフの瞼に、カミューは手を伸ばした。薄らと擦れた痕がある。賊と戦ったと言う名残だろうか。
「無事で良かった」
 心からの安堵にそう呟くと、マイクロトフの目が眇められた。
「この五日間で思い知った。マイクロトフ……もう、黙って居なくならないでくれ」
「………」
「好きだ」
 告げて男の首に腕を回すと唇を寄せた。
「愛しているんだマイクロトフ」
「カ……ミュー…」
 間際で囁いて、驚く男の声も何もかも唇で覆い尽くしてやった。
 深く合わせたマイクロトフの唇は乾いてかさついていた。カミューは角度を変えてそれを濡らしてゆくと、やがて合わせた時と同じように唐突にそれをやめた。
 いつの間にかマイクロトフの手がカミューの背にまわっていた。
 その力強さに、カミューは泣きそうなほど昂ぶった感情のまま微笑んだ。
「もっと、驚かせてしまったかな」
「いや、あぁ、その…驚いた。おまえが俺を―――」
 呟いてマイクロトフは顔を赤らめたまま俯く。だが影になった口許から低い声が漏れて一帯に響いた。
「花を……」
 ゆっくりと顔を上げたマイクロトフは、照れたように視線を逸らしながらその先をテーブルの上の花瓶へと向けた。
「おまえに花を預けた時、俺の心も預けたつもりでいたんだ」
「マイクロトフ?」
「花売りの唄の話しをしただろう?」
 カミューが頷くと、マイクロトフは顔を歪めて苦笑した。
「柄にも無くな……感動したから。俺の正直な気持ちを、おまえに打ち明けようと思ったんだが、急に出なければならなくなって、だからカミューに預けていった。戻った暁にはと……だが」
 おまえに先を越されたな、とマイクロトフは短く笑った。
「唄のように、俺の心がカミューの中に届いたのだろうか」
 そんな事まで言って見せるマイクロトフに、カミューは穏やかに微笑んだ。
「かもしれないな。あの花を見るたびおまえを思い出したから」
「そうなのか?」
「ああ」
 頷いて瞬くと、目の縁に溜まっていた涙がぽろりと零れた。
「そのたびに、胸が痛んだ」
 そう言って笑って見せると、マイクロトフは苦しそうな表情をした。
「本当に心配をかけたんだな―――すまなかった」
 心から詫びているらしい様子に、カミューは胸にわだかまっていた不安が漸く消えていくのを感じた。
「無事に戻ったのなら良いさ」
 こうして、とまた男の頬に手を寄せると、今度はマイクロトフの方から唇を近づけてきたのだった。



 と、不意に扉の向こう側から何やら喧騒が聞こえて来た。
「そう言えばマイクロトフ。おまえどうやって帰ってきたんだ」
「いや、普通にいつも通り……深夜だから裏門を通って、馬を厩に預けてそのまま真っ直ぐ自室に……」
 と、扉が控えめに叩かれた。
「カミュー様! や、夜分恐れ入ります! その、我が団長はまさかこちらに来てはおられないでしょうかっ!」
 青騎士たちだろう。聞こえてくる声は酷くうろたえた調子だった。無理もない。行方不明だった団長が夜中にあっさり帰ってきたのだから。
 カミューは笑いを堪えきれずに、口許を拳で覆うと片手で扉を指差した。それを目で追ったマイクロトフが救いを求めるような眼差しを向けてくる。
「カミュー」
「……わたしは寝ることにするよ」
 ここ数日眠れていないから。そう呟くと言葉の威力に押されてか急速な眠気がカミューを襲い始めた。
「第一こんな泣き顔を青騎士の連中に見られたくはない」
「あ、う……」
 口をパクパクとさせるマイクロトフを置いて、カミューはさっさと奥の寝室へと足を向けた。だが床の上にあるユーライアを拾い様に振り返った。
「そうだマイクロトフ……」
「ん?」
「今度、例の花売りの歌った唄を聞かせてくれ」
「え?」
「じゃあお休み」
「カミュー…?」
 うろたえ気味のマイクロトフの声に被さって、また青騎士たちの呼びかけの声がする。
「早く、彼らにも無事な姿を見せて安心させてやれ」
 そう言い置いて、カミューはパタリと戸を閉じた。
 そして一拍置いて、扉の向こうで「マイクロトフ様!」と青騎士たちの驚きの声が聞こえてきた。その騒ぎを子守唄に、カミューは漸く安らかな眠りに落ちていったのだった。


END


選択肢に戻る



平和なオチでした
やでやで

2000/07/31

企画トップ