つきたちの花


 マイクロトフの不在―――それはカミューの心に重く冷たい塊を落としていた。
 青年は薄い色素の瞳で、目前にある赤い切花をいつ果てる事無く眺めていた。それは三日前に誰あろう青騎士団長マイクロトフが街の花売りから自身の手で購入したものだった。買ったばかりのその夜は城内にある青騎士団長の私室に飾られていたその赤い花は、翌日から赤騎士団長の私室へとマイクロトフの手で移された。

 ―――俺が戻るまで枯れさせないでくれるか。

 来訪していた他市の要人を国境まで送り届ける任を受けた青騎士団長は、見送りに出たカミューにそんな事を言い残して出立した。
 国境まで辿りついたところまでマイクロトフの行動は明白だ。そこで要人と別れ、後は真っ直ぐロックアックスへ戻るだけの、特別な事など何もない道程。だがその途中でマイクロトフは姿を消した。
 同行していた青騎士団の彼の部下たちは、気付いたら上司がいなかったと、とんでもないたわ言を真っ青な顔でゴルドーに報告した。帰城した彼らの疲労具合を見ればどれほど困惑し、どれほど自団の団長を探したかは窺える。だが、消えたなどと―――おまえ達の団長ではないのか、と怒鳴りつけたくなる衝動を堪え、カミューはあくまで冷静な態度を装い報告を受けた。

 本来なら一日で彼は帰城するはずだった。だが二日経ってもマイクロトフの行方は青騎士たちが必至で探索の手を伸ばしているにも関わらず依然不明のままだった。

 ―――どこに行ったマイクロトフ。

 目の前の赤い花が窓から吹き込む微風を受けて揺れた。

 ―――枯れないうちに、早く帰って来い。

 カミューはそして、祈るように目を閉じて友人の安否を思った。





 赤き色はたぎる想い  溢れていつしか花となる

 ふと耳に届いたそんな唄に、青騎士団長はついその歩みを止めた。
『マイクロトフ様?』
 傍らの部下が訝しげな声で名を呼ぶが、マイクロトフは片手を挙げるのみでそれに答え、無言で唄を歌う娘の方へと足を向けた。
 娘は脇に花を積んだ籠を抱えていた。
 ―――花売りか。
 娘が甲高い声で繰り返し口ずさむ唄は南方の音律で、ロックアックス育ちのマイクロトフにとっては馴染みの薄い旋律だった。無論、無骨な質の青年騎士がそんな事を知る由もない。ただ無心で聞き慣れぬ旋律に耳を傾けていた。尤も旋律云々などよりも、その歌詞そのものに意識をとらわれていたのではあったが。
 だが近場で大柄な騎士がむっつりと黙り込んでいては、流石に花売りの娘も気まずくなったらしい。唄を止めて窺うようにそろそろとマイクロトフを見た。
『あの……何かご用ですか?』
 声をかけられて初めて、マイクロトフは自分が不躾に娘を睨みつけていたのだと悟って、やにわにうろたえた。
『失礼した。その―――唄が……』
 念頭にあるのは花よりも娘よりも、まずその唄である。率直に切り出した。
『その唄はなんと言う唄か教えてもらえるだろうか。できればその歌詞を』
 娘は一瞬、きょとんとしてマイクロトフを見たが、直ぐに破顔してころころと声を立てて笑った。
『分かりました。そう…ですわね。始めから歌ってみましょうか』
 そして娘は軽く瞑目すると形良い唇を開いて、涼やかな歌声で詩を紡ぎ始めた。

 “愛しいひとに”で始まるその唄は、離れた恋人を想う娘の心情を綴った恋歌であった。娘の思いは海や空に託されて、水を流れて恋人のうちへと届くのだ。ゆっくりとした流れの唄はだが、ある節でがらりと印象が変わる。そう。マイクロトフが聴き止めたその一節。

 赤き色はたぎる想い  溢れていつしか花となる

 その一節によって、唄の中の娘が情熱的に恋人を想っているのだと分かる。そしてますます唄は情熱的な詩を紡いだ。命を宝と思うこそ、それをかけて生きて咲くのだと唄う。
 その唄は間違い無く恋歌ではあるのだが、その根底にある生命の情熱を唄う歌詞にマイクロトフは胸を打たれた。そして娘が歌い終わった事に気付かずひたすら立ち尽くしていた。傍らの部下が腕を突付いてくれなければ、もう暫らくぼんやりと立っていただろう。
『…『つきたちの花』と言う南方の民俗唄ですわ。騎士様が歌われるには少し不向きな唄ですわね』
 唄い終えた花売りの娘はそう言って微笑む。その手許の籠には色とりどりの花に紛れて赤い花があった。それをさしてマイクロトフは訪ねる。
『良い唄だった。ありがとう。―――それがそのつきたちと言う花か?』
 すると娘はやんわりと首を横に振った。
『いいえ、残念ながらこれは違います。唄われている花は南国のもので、これよりももっと真赤で随分と大きな花弁のものです。辺り一面に群生するとそれは見事らしいのですけれど、生憎マチルダではお目にかかれませんわね』
『そうなのか。しかし、さぞ生命力溢れる花なのだろうな』
『そう、らしいですわ。この唄は南方の群島諸国出身の祖母から教わったのですけれど、唄いながら良くそう話して聞かせてくれましたから』
 そうか、と頷いてマイクロトフははたと気付く。
 成り行きでわざわざ歌ってくれた娘に対して、謝辞だけで済ますにはあまりに礼を欠いているではないか。しかしさりとて歌代と金銭を支払うのも失礼な気がする。と、そんな青騎士団長の狼狽の理由に気付いたらしい部下が囁いた。
『花を一輪でもお買いになれば良いんですよ』
『そ、そうか』
 頷いてマイクロトフは籠の中の赤い花を指した。
『それを小さく束ねてくれないか』
『この、赤い花だけで宜しいんですか?』
『ああ』
 唄の花とは違っても、色は近いかもしれない。できれば余韻を味わいたいマイクロトフは深く頷いた。そして娘がまとめた花束を代金と引き換えに受け取る。
『お買い上げ有難うございます』
『いや。邪魔をして済まなかったな』
 そしてマイクロトフは片手に色鮮やかな赤い花束を持ち、街の大通りを城へ向かって歩いていった。



 ―――唄を聴いておまえの事を考えた。カミュー……

 花を買った経緯を話す男の穏やかな笑顔が、覚醒と同時に急速に薄れて消えていく。
「あ……」
 気付くと手を持ち上げて指先が虚空を掻いていた。見慣れた天井の染みがあるだけで、伸ばされた手が力を失ってシーツの上に落ち、吐き出した息が頼りなく震えた。だがその一瞬後、胸にむかつきを感じてカミューは飛び起きると、部屋の奥にある水場に駆け込む。
「……っ…」
 瞬発的に動いた事で誘発された頭痛が更なる嘔吐感を誘う。と言っても胃の中には何も無い。吐き出されるのは茶色く濁った胃液だけだった。喉の奥に苦味が残りカミューは何度も咳き込んだ。
 ―――全く酷い。
 カミューは自嘲を浮かべて口許を拭う。漸く遠ざかっていく嘔吐感に、僅かに息をつきつつも、頭痛は止まらず酩酊感が視界を揺らし、霞ませる。
「五日……」
 呟いてそこに座りこんだ。
「五日で漸く夢を見たか……」
 喉の奥が鳴った。と、不意に湧き上がった強暴な衝動を抑えきれず、カミューは拳を振り上げて床を強か殴りつける。
「……っ」
 じん、と甲に麻痺したような感覚が広がり、次に鈍痛がじわじわと侵食してくる。この程度なら痣になるだけか、と思考のどこかで考えて、直ぐにまたカミューはそんな自分を笑った。
「血も出ない…」
 全力で殴りつけたはずが、拳を傷付けるほどの力も出なかったらしい事実が、ますます苛立ちを煽った。だが、同時に動揺は消えた。
「ふざけてる」
 呟いてカミューは立ちあがった。
 また、新しい一日が始まる。マイクロトフが不在のまま、始まる。





 五日を経ても、マイクロトフの行方は杳として知れなかった。まるで神隠しにでもあったかのようで、当初は捜索に張り切っていた青騎士たちも次第にその勢いを欠いていった。中には絶望視する声もあり、次の団長は誰だなどと話している者もいる。
 特に白騎士の間ではもっぱら、マイクロトフがその年齢に不釣合いな重責に耐え切れず、自ら姿を消したのだという不埒な噂が飛び交っていた。逃げ出すなどと、あの男を知るものには何よりも考え難い、有り得ない行動だ。
「何か事件に巻き込まれたに決まっているでしょうに。全くけしからん噂です」
 副官が憤りを隠さずにそんな事を言う。カミューは奥歯を噛むと「事件……」と呟いた。そして傍らの副官から目を離すと、手にしていた書類を机上に放る。
「事件に遭遇して身動きが取れないなど、それこそけしからんな」
 言外に、一団を統率するものがそれで良いのかと、そんな意味合いを含んだ辛辣な物言いだった。副官はそんなカミューを見て息を飲む。
「カミュー様」
「聞けばあいつは剣も装備もそのまま消えたそうだからね」
「………」
 無表情に痛烈な言葉を乗せる上司を、副官は痛ましげな目で見た。
 ここ数日で青年は、見た目にも明らかに酷く衰弱の様相を呈してきているのである。カミューとマイクロトフと言えば、昔から気性が全く違うのに何故か気の合う友人同士で、互いに違う団に配属されても、またそれぞれがその技量に見合った昇進を遂げ、終には二人とも同じ団長職に昇りつめても、その不思議な友情が壊れる事が無い、周囲の者から見ても終生続くであろう友人関係にあった。
 そんな相手が、行方どころか安否さえ不明のまま数日。取り乱し、苦しんでいたとしても無理はないだろうに、カミューはその優男に見えて実は熾烈な精神力をもって、平素の通り過ごして見せている。
 だが五日である。マイクロトフの生死を含めた一切の情報が掴めなくなって五日、カミューの頬はやや削げはじめ、瞳にも何処か虚ろげな色を宿し、生気を失ったように乾いた髪が額に散っている。
 余裕がなくなり始めているらしい様子が痛ましくあり、そのくせそんな青年から発せられる言葉は責任ある団長としての重責に縛られた鉄壁のもので、その釣り合いの無さが妙な軋みを連想させるのであった。
 辛くないわけが無いだろうに。
 カミューよりも幾分年嵩の副官は、そうして喉まで出かかる言葉を常に飲み込んで、尊敬する団長の自意識を優先させているのだった。
 そんな副官に気付いたのかどうなのか、カミューはふい、と視線を逸らせる。
「もう良いだろう。我々には今為すべき仕事がある。―――あいつの事ばかり、構ってはいられない」
「……はい」
 騎士団内は今どこも重苦しい空気に見舞われていたが、この時の赤騎士団長の執務室以上にひどい有り様はないだろうと、副官はそんな沈痛な感想を押し殺した。





 花はまだ枯れていない。
 昔何かの折に、砂糖水に挿せば長持ちすると聞いた。
 それでも多少期間が伸びるだけでいつまでも持つはずが無い。

 ―――枯れないうちに、早く帰って来い。

 赤い花は、昼の明るさを受けて目一杯花弁を広げて輝いている。
 今が盛りと咲き誇っている。
 カミューの心情に反する様に……強く咲き誇っている。



■選択肢(A-1) さてこのあとカミューを…
 なんとかしてあげたい
 もっと落ち込ませたい



2000/07/27

企画トップ