想いの根拠
事の起こりは日常的な、なんでもないような遊びだった。
酒場でいつもの面々が集まり、杯を空けながら歌い騒ぐ頃。この夜はそこに元青騎士団長と赤騎士団長も同席していて、傭兵たちの隣のテーブルに座ってにこやかに酒を楽しんでいた。
その直ぐ側には女剣士のアニタとバレリアもいて、仲良く笑いながらあれこれと密やかに話をしている。そんな彼女たちが時折酒場内のあらゆる顔にちらりと視線を向けては、何やら会話を交わしているのが恐ろしく感じるのは男たちだ。
大人の女性たちは、甲高く騒がしいばかりの若い娘たちとは違って、奥が深いだけに対応が難しいのである。下手に突付いて藪から蛇を出したくはない。だから皆殊更に視線を合わせないように勤めていたのだが、そんな風に世慣れた真似など出来ない青騎士団長だけは例外だった。
「カミュー、アニタ殿らは俺たちに何か用があるのだろうか」
「なんだって?」
マイクロトフの固定された視線の先、カミューがちらりと振り返れば美女たちがにっこりと微笑んでひらひらと手を振ってきた。それにかりそめの微笑を返してカミューはさっとマイクロトフに向き直った。
「気にするな」
「しかし、俺たちの方を見て何か頷き合っておられたぞ」
「女性たちの噂話とは見境がないものだ。別に我らの事だけに限ったものではないよ」
だから気にするな、と再度言い含めてもマイクロトフは気になるようで、定めた視線を外そうとしない。
どうやら、それが蛇を突付き出してしまったらしい。
「元気かい騎士団長さんたち」
背後からしっとりと掛けられた声に、カミューは内心で溜息を零しながら素早く振り返ると笑みを浮かべる。すると、アニタの後ろでバレリアが小さく詫びる仕草を見せたのが目に入った。それに瞬きで応えながらマイクロトフを伺うと、突然の闖入者に胸を押さえている。
自分で呼び込んだくせをして、女性が近くに来ただけで緊張してどうする。
「これはアニタ殿にバレリア殿。ご機嫌麗しく」
毒づきながらカミューは手にしていたグラスをテーブルに置いてアニタを見た。
「何か、御用ですか?」
「いやさ。さっきバレリアと話してたんだけど、あんたはともかくそっちの兄さんは催眠術にかかりやすそうだねぇって」
マイクロトフをそう指摘してアニタは肩を竦める。そして。
「それで、試させてくんないかなと思ってさ」
どう? と問い掛けられて、カミューとマイクロトフは顔を見合わせた。
これでも少しは覚えがあってさ、とアニタは返事を待たずに空いた椅子に割り込むと、卓上にあった蝋燭をつと手の中に呼び寄せる。その後ろでは椅子の背凭れに手をつきながら、もはや止める気力も失せたらしいバレリアが逆に興味を湛えた瞳でじっとそれを見下ろしていた。
ところが、その蝋燭の灯火の揺らめきを利用して、アニタが型通りの催眠術を試してみても、マイクロトフは口を真一文字に結んだままなんら変化を起こしはしなかった。
ちなみに催眠の内容は『イノシシになーれ』であるから、失礼な話であるものの、集まった野次馬の笑いを誘うに充分だった。
だが結果的にそれは、単純思考の猪突猛進と言われる元青騎士団長が、流石は統率者なりの意思力の強さを秘めているのだとは知らしめる事となったのである。
催眠術にかかりやすいのは、素直で感化されやすく暗示に弱い者が多いとの通説を皆知っているのである。統率者にとってそんな性質は好ましくないのは当然だ。
しかし、そんなマイクロトフの意外な反応につまらないと駄々を捏ねたのは、催眠術をかけようとしたアニタである。
「なんだ、面白くないねぇ」
「素人がそんな上手くかけられるわけないだろ。だいたい催眠術なんてものにかかる人間は、五人に一人くらいだって言うし」
バレリアが後ろから窘めるのに、アニタは更に不満も露わに唇を歪めた。
「でもこの兄さんならかかるって、アンタだって思ったんだろ」
「アニタ!」
ぐっと詰まって直ぐに、怒った声でバレリアが叱るように叫んだ後、良いからもうやめな、とその手に仕舞ったままの蝋燭を取り上げようとする。しかしアニタはそれを上手くかわして今度はカミューに目を向けた。
「次はアンタでいってみようか」
「は…? わたし、ですか?」
人差し指で己を指差しカミューがぽかんとする。途端にあっさりマイクロトフから興味を移したアニタが、蝋燭を真っ直ぐに立てて炎の形を整えた。
「良いかい? これをじっと見ておいで」
「アニタ殿」
「黙って。そもそも真似事なんか端っから信じちゃいないんだから、別に何が起こるわけじゃないだろ。ただの余興なんだから付き合いなよ」
「仰せのままに」
少々へそを曲げたらしい女性に、下手な口答えは禁物だ。一言に三十言くらいで返されるのだから、カミューはくっと口を噤んでおとなしく炎の赤い揺らめきに視線を定めた。
ちらちらと燃える蝋燭の炎は、何もない虚から突然に発して天井へと消えて行くように真っ直ぐに淡く立っている。しかし蝋の融けた芯が小さな音を弾いて聴覚を間断なく刺激しもする。
「目を逸らすんじゃないよ。炎だけを見詰めるんだ。ほら、揺れを目で追ってご覧」
言ってアニタが左右に揺らすそれを、視線だけで追いかける。
「炎の動きが見えてくるだろう? そうだ、じっと見て」
そして炎だけに意識を集中させた時、それまでの命ずるような声とは裏腹な、甘く優しいアニタの声がするりと耳に忍び込んできた。
「どうしようか……? そうだね、どうせかかりゃしないんだから、絶対に有り得ないってことを言ってみようか?」
囁きかけるようなアニタの声に、しかし視線は炎から離れない。
「こうしよう。アンタは誰よりマイクロトフって男を知ってるね?」
と、突然名前が出てきて少し驚くものの、アニタが途端に厳しく「答えて」と畳み掛けてきたものだから、慌てて頷いた。
「はい、知っています」
だが、それが何だというのだろう。するとアニタは満足げににやりと笑った。
「そうだ、良く知ってる。だけどね、良いかい? アンタは忘れてしまうんだ。この、マイクロトフを」
視界の中にはいない男が、ぎょっとしたのが気配で分かる。しかし炎は相変わらずゆらゆらと揺れていてカミューの視線を捉えて離してはくれなかった。
「最初は名前だ。それから次々に小さなことから忘れていく……最後には何もかもこのマイクロトフのことを忘れてしまう。この炎が消えたら、アンタは、忘れはじめるんだ」
そしてアニタはふっと蝋燭の炎を吹き消した。
酒場に、一瞬の沈黙が下りる。誰もが消えた炎の後に立ち登る白く細い煙を見詰めて、独特の蝋の焦げる匂いを嗅いでいた。だがその沈黙を打ち破ったのは、他ならぬアニタだった。
「って、簡単に忘れちゃったら冗談にもなんないよ」
あぁ、やめたやめた。とアニタは大袈裟に背伸びをして椅子から立ち上がる。
「変な遊びで肩凝っちゃった。バレリア、部屋で飲みなおさない?」
そして去っていく女性たちの背中を、呆然と見送るマイクロトフとカミューである。そんな彼らを気の毒に思ってか、殊更明るく声をかけたのは野次馬の一人、ビクトールだった。
「ま、なんだ。女ってのは、良くわからねえ遊びが好きだよな」
ぽん、と取り残された感じのカミューの背中を叩いて、目の前の空いたグラスに手に持っていたボトルの酒を注ぎ足した。
「飲め飲め。んで忘れちまえ」
あ、もちろんマイクロトフじゃなくてさっきの催眠術もどきのことだぜ? とビクトールは笑う。
その気遣いにぺこりと頭を下げて、カミューは満たされたグラスから酒を飲み干した。なるほど確かに、忘れてしまえるほどに強い酒である。
そしてそれきりマイクロトフもカミューも、ビクトールのボトルを空にするまで酒場で過ごした後、私室に戻ると翌朝までの深い眠りについたのであった。
そして。
カミューにとっての驚愕はその朝に密やかに訪れた。
違和感は目覚めの時だ。
連日の早朝訓練から戻った愛しい恋人が、甘く優しく呼び起こしてくれて目覚めた時。おはよう、と声をかけて幸福のままに微笑んだまでは良かった。
ところが、急に喉の奥が重苦しいような心地に襲われて首を傾げてしまったのだ。その理由が分からないままに、通常通りに騎士服に着替えて部屋を出た。
そして、執務を行う部屋までゆっくりと歩く道程で、不意に気付いた。
その途端に全身の血が引く想いがした。
思わず飛び出しそうになった悲鳴を噛み殺し、カミューは一瞬の逡巡の後に昨夜酒場で共に過ごした傭兵の部屋へと駆けつけてその扉を叩いたのだ。
他の誰にも、騎士たちには尚更言えないその事で。
そして何度か叩くうちに漸く応えて扉を開けたビクトールに、カミューは真っ青な顔のまま訴えた。
「あいつの名前が思い出せないのです」
悲壮な声で。しかし欠伸を飲み込む傭兵はぼんやりと首を傾げる。
「誰だ?」
「えっと……わたしと共に一緒にここへ参加したマチルダ騎士の―――」
「おいおい、騎士がいったい何人いると思ってんだよ、そんなのわからねえよ」
ふらふらと手を振りビクトールは眠そうな瞳をしばたたかせて、朝の光に眩しげな表情を浮かべる。しかしカミューは今にも恐怖で叫びだしたい気分だったのだ。
「だから思い出せないのです。あいつの名前が、今朝だって起こしてくれたのに……っ、ずっと一緒にいたのに、どうしても……っ」
指先が震える。
まさか。
そんなまさか。
しかし焦れば焦るほど、掴みかけていたもやのような何かが一層遠ざかっていく気がした。
そしてそこに来て漸く、カミューの常にない取り乱しようにビクトールも気付かされたのだ。
「おい、まさかそいつは……マイクロトフのことを言ってんじゃないだろうな」
その名が出た刹那、カミューの全身を鳥肌が立つほどの悪寒がつきぬけたのであった。
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さぁカミューさん大変。
そしてキリリクから大きくそれていく予感…。
2003/05/04