想いの根拠2
そしてカミューに叩き起こされたビクトールが、更に叩き起こしたのはアニタだった。
朝早くにレディの部屋を訪ねるのは良くない、とか何とか言うカミューであったが、だからと言ってどうやら事の原因らしい人物は無視出来ないとビクトールに引っ張られてきたのだ。
案の定、まだ寝ていたらしいアニタは扉の向こうから不機嫌極まりない応答を返してきた。
「なによ……昨日飲み過ぎて頭が痛いんだから、手短にね…」
指二本分程度の隙間を開けただけの扉の向こうから、酷い形相でアニタがビクトールを睨む。しかしその背後で顔色を無くしている色男を見つけてその目がおやと、扉の隙間と一緒に緩んだ。
「どうかしたの」
それでも顔が見えるくらいに開けた扉から、問い掛けた言葉に答えたのは傭兵の方だった。
「どうもこうもねえよ。ちと聞くが、昨日の酒場で騎士団長どもに何やったかは、覚えてるんだろうな?」
「そこまでぼけちゃいないよ、失礼だね。なに、あの遊びが何かした?」
「したした。こいつバッチリかかっちまったみてえでよ」
ビクトールが親指を立てて己の背後をぐいと指差すと、カミューの必死な眼差しがアニタの呆けた視線とぶつかった。
「え、どういうことさ」
「だーかーら。今朝起きてからカミューの奴、マイクロトフの名前が思い出せねんだとよ。俺に聞いても覚えられねえみてえだし、なんかおまけに名前だけじゃなくて、細かいところも次々に分からなくなってってるみてえでよ」
ビクトールにしてみれば、他人事とはいえ充分親身になったつもりでアニタに訴えてやったつもりだった。しかし当の美女は隙間の向こうで何度か瞬くと一言だけ応えた。
「へーえ」
がくっとビクトールの足元がくじけそうになる。
「って、言う事はそれだけかよ。おまえのかけた催眠術のせいかもしれねんだぞ」
「かもねぇ」
両手をわなわなと震わせて勢い込む傭兵に対し、女剣士はあくまでのんびりとしている。
「でもさぁ、だからって何とかしろと言われてもお門違いだよ」
「なんだと?」
「だって、術を解く方法なんて知らないからね。こっちは最初っから遊びのつもりだったしさ」
「じゃあ何か、おまえかけっ放しだってのか!」
「怒鳴らないでよ、煩いったら。仕方ないだろう、こっちだってまさか掛かるとは思っちゃいないんだからさ。ごめんね」
ちらと青褪めたままのカミューに視線をやると、アニタは短く詫びる。だが続けて率直な疑問をその性格のままにぶつけてきた。
「それにしても、それって本当に昨日の催眠術が原因?」
「……わかりません」
「そ。でも悪いけど、何も出来ることはなさそうだから」
「はい。朝早くに、お騒がせしました」
「んー、じゃ、おやすみ」
ぱたん。
閉じられた扉の前でカミューは小さく吐息を零し、ビクトールは歯を剥いてわなわなと震えた。
「てめえは何あっさり引き下がってんだコラ」
「あっさりも何も、これ以上アニタ殿と話をしても得るものはありません」
「だからってだなぁ―――!」
焦れて怒鳴ろうとするビクトールに、しかしカミューはすっと手で制して足元を見下ろす。
「アニタ殿には最初から催眠術などかけるつもりはなかった。ならば何故わたしはあいつの事を思い出せないんでしょう」
「……だからそいつは、催眠術が…」
「いいえ」
すかさずカミューが首を振って否定するのに、ビクトールは口篭る。じゃあなんだよと即座に聞き返したいのだろうが、じっと足元を見たままの琥珀の瞳がそれを躊躇わせる。
「カミューよ?」
「馬鹿みたいだ」
「あん?」
呟きが聞き取れなくて眉を顰める傭兵に、カミューはふっと顔を上げると苦笑とも微笑ともつかない笑顔を浮かべた。それからそんな表情とは実に不似合いな冷静な声音が唇からこぼれる。
「アニタ殿にかける意志がなかったのなら、別の意志が催眠をかけるよう働きかけたんです」
「どういうこった」
「……いわゆる、自己催眠というものではないかと。わたしに催眠術をかけたのは、わたし自身なんですよ」
おそらく。
そう呟くカミューの表情は固い。とても冗談を言っているような顔ではなかった。ビクトールはやにわに掌に汗を掻いたような気分で、握ったり開いたりしている。
「あ? じゃあ、なにか? おまえ自分でかけちまったって―――」
こくり、とカミューが頷くとビクトールは不穏な目をして顔を顰める。しかしその声には明らかな呆れが含まれていた。
「んな、器用なのか不器用なのか分からねえ真似をよくも」
「ですが、それ以外には考えられないような……」
つと己の顎に指先を宛てて考え込み始める赤騎士団長に、傭兵は髪をがしがしと掻き乱して途方に暮れる。それにしても、原因がどうであれ厄介であるには違いあるまい。
「まあ、なんだ。早まってあれこれ考えてもしょうがねえしよ。まずはホウアンあたりに相談でもしてみねえか」
他に何か原因があるかも知れないし。そう言って俯くカミューの肩を叩くのだが、どこか茫洋とした瞳と声がそれに答えるだけだった。
「……名前、なんでしたっけ?」
ぽつりと呟く声にビクトールが目を瞠る。まさか俺の名前まで忘れだしたかと慄きかけたが、どうやら違った。
「あ、いえ―――あいつの……なんでしたか…」
「マイクロトフか?」
「あぁ、そう…そうでした」
そしてホッと青褪めた顔を笑みに緩ませる。
「変ですね。思い出せないし、聞いた端から忘れてしまうのに……その瞬間だけは、安心します」
「カミュー…」
それからさっと気分を変えるように背筋を伸ばしたカミューは、にっこりと笑みを浮かべるとビクトールに先を促した。
「申し訳ありませんが、あと暫くお付き合い頂けますか。ホウアン先生に事情を説明するのに、わたしひとりでは難しそうですから」
「…そりゃ構わねえがよ」
それよか、先にマイクロトフのところへ行って、その顔なりを見た方が良いんじゃないか。自分の提案をよそにそんな事を思ってしまうビクトールであったが、さっさと歩き出したカミューには何故だか言い出し辛かった。
誰よりも近しい相手に、おまえの名前が思い出せなくなったと打ち明けるのはやはり躊躇われるだろう。しかしそれがマイクロトフであるなら、心配など無用かとも思うが。
あの男なら、それこそそんなカミューを案じてこそすれ、責めたりなどすまい。何とか問題が解決するように身も心も砕いてくれるに違いない。
「そういえばビクトール殿」
「なんだ?」
背を追いつつのんびりと応じると、歩きながらカミューはくすりと笑った。
「まだ、あいつの顔は思い出せるんです。でも名前が出てこないだけでこれほど不安になるとは、驚きですね」
それからまた足元に視線を落としてカミューはひっそりと囁く。
「名前とは、こんなにも重要なものだったのですね…」
「まあな」
相槌を打ってから、それならとビクトールはカミューの横に並んでその顔を覗き込んだ。
「なぁなぁ、イノシシってなどうだ?」
「イノシシ、ですか?」
なにが? とカミューが首を傾げる。それにニカッと歯を剥いてビクトールは笑った。
「マイクロトフの事だよ。催眠術が解けるまでのあいだ、そう呼んでやれ」
それなら忘れる事もねえだろ。
「イノシシ……それは、ちょっとあんまりじゃ…」
眉をひそめながら、それでもカミューの声は震えている。笑うのを堪えて。
「名前思い出せねえんだろ? 面倒じゃねえかよ」
イノシシな、イノシシ。決まりだ、と笑ってビクトールはカミューを追い越してひょいひょいと先を行く。その背を見て小走りに追いかけながら、カミューは。
「…それならビクトールの事まで忘れてしまったら、クマですかね」
笑み混じりに小さく囁いた声は、幸いながら傭兵には聞こえなかったようである。
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マイクロトフが出てこない〜〜。
2003/05/27