想いの根拠3


 さて相談を受けたホウアンである。
 だが彼の専門は外傷や疫病の類であって、精神的なものはハッキリ言って対象外である。これが何らかのモンスターによる特殊攻撃の状態変化ならまだしも、素人の催眠術で自己暗示にかかったっと言われても対処のしようなど良く分からない。
 ただ、重症患者が時に精神にまで痛手を負うことがあり、そうした時に治療の一環として手助けをしないこともない。
「……心の問題でしたら、まずは落ち着いて現状を把握してそれを認めるところから始めてください。肝心なのはこの問題から逃げないことです」
「逃げる…」
 カミューがぽつりと呟くとホウアンはこっくりと頷いた。
「どうしてこうなったのか、その経緯や原因を考えてみましょう。安易な解決方法を探すよりも、根本にこそ何気ない真実が隠れていたりしますから」
 だがカミューは自分が自己暗示で催眠術にかかったと既に分析している。確たる証拠はないが、そうではないかとビクトールにも打ち明けているのだ。ところがホウアンはゆっくりと笑みを浮かべた。
「では、なぜカミューさんは自己暗示などなさったのでしょうか」
「え……」
「そもそも、ご自身でそんな真似をしなければ、周囲がどれほど暗示をかけようと働きかけても、全て無意味な事となるでしょう。あなた自身が暗示にかかろうとしたその理由があるはずです」
 言われてカミューは愕然とする。
「……わたしがあいつの事を忘れたがっていたと……そう仰るのですか」
 そんな馬鹿げたことがあるわけ無い。何よりも大切で誰よりも愛しい相手を忘れたがるなど。
「そうですね、あくまで可能性としてはあるかもしれませんが。また違う理由も考えられますよ」
 ホウアンは断定口調を避けて、あくまで曖昧な言い回しのまま諭してくる。
「暗示というと何やら現実からの逃避と思われがちな印象がありますが、治療の分野では有効な手段なのですよ? 無意味な不安を取り除く事によって、患者さんが安定した状態で治療を受けられるのです」
 病は気から、といった言葉は案外的を得ていたりするのだ。

 結局のところ身体に何か異常があるでなし、また魔物に取り付かれた痕跡もなく何がしかの魔術の影響を受けているわけでもなかった。ということで原因も分からずじまいで医務室を辞去したカミューであったのだが、よくよく考えれば問題はすぐそこにあった。
「そういやあ、マイクロトフはまだ知らねえんだったよな」
「…はい」
 名前を聞くだけでズキンと胸に鈍い痛みが宿った。
「説明してやろうか?」
 ビクトールが何気ない口調で申し出てくれる。だが、そこまで頼るのもどうかと気が引けてカミューは小さく首を振った。
「どうも有り難うございます。ですが自分で話しますよ」
 そもそもこれはカミューの問題であって、そこにビクトールを引っ張りまわすのもおかしな話だ。名前が思い出せないだけで、カミューは口も利けるし手も動かせる。何が不自由と言うわけではないのだから。
「そっか」
「はい」
 ビクトールもその辺りの引き際は心得ていて、あっさりと頷くとニカッと笑った。そしてつられてにっこりと笑んだカミューの肩をポン、と叩くと横を通り抜けていく。
「ひとまず俺は傭兵隊の連中とアレコレやる事があっから、何かあったらそっちの方に声掛けてくれや」
 これでも傭兵隊の砦では上に立っていた男だ。同盟軍ではいち部隊の頭領に過ぎなくとも、控えている用事はカミューとさほど変わらない。言われて己もまた仕事があるのを思い出してハッとした。
「じゃあな」
「あ、どうも有難うございましたビクトール殿!」
 去っていく背中に慌てて謝礼を告げると、太い腕が持ち上がって大きな掌がぞんざいにゆらゆらと揺れた。その姿が廊下の角を折れて消えると、カミューはほうっと吐息を零してひとまずは己の執務室へと向かったのだった。



 一番大切な名前を忘れてしまったのに、執務は滞りなく進むのがなんだか奇妙な気がした。だが案外そんなものかなと書類を眺めながらそんな事を思う。
 普段、相対する時以外に名前を呼ぶ機会といっても限られている。そもそも騎士団にいた頃でも赤と青とは完全に組織として分かれていたし、同盟軍に移った後でもそれは変わらなかった。
 だがその反動なのか  的な時間になると同時に、その機会はぐんと増える。同じ空間にいればその頻度は増して、会話でもしようものなら数え切れないくらいにその名前を呼ぶのだ。
 つらつらとそんな事を考えながら、何よりも貴重な名前をつむぐ事の出来ない唇に指先で触れた。
「カミュー様?」
 部下がそんな上司の不可思議な仕草に案じるような声を出す。
「うん?」
 はたと瞬いてその部下の方を見ると、彼は気まずそうに顔を顰めていた。
「あ、いえ……何か気にかかる点でもございましたか」
 言う視線の先にはカミューの手にある書類に注がれている。不備でも見つけたかと思ったのかもしれない、慌てて笑顔で取り繕うと手を振った。
「そうじゃないんだ」
 それほど変な顔をしていただろうかと苦笑をして、カミューはあらかた確認し終えた書類の最後に己のサインを走らせた。
「気にさせてすまなかったな、これで良いよ」
 トンと机の上で揃えて纏めたそれを部下の手に渡しながらちらりと時計を確認する。そろそろ昼に近いがまだ暫くある。じりじりと進む長針にカミューは短い溜息を落とした。

 迎えに来るだろうな。

 昼食はどちらからともなく、先に午前の仕事を終わらせた方から誘うようになっていた。別にそう決めたわけでもなく、たとえば一方が忙しくてとても昼食を摂る暇が無かったとすればそのまま一人で食堂へ行くも良し、執務室に取り寄せて狭い場所ながら顔を付き合わせて食べるも良しだ。
 何故だか可能な限り共に食事をするようになったのは、騎士団時代、互いに団長という職に縛られて滅多にそんな機会が無かった所為かもしれない。
 だが正直、今だけは一緒に食事をするのは避けたかった。
 どうする。
 まだ時間には早いから、先にここを出て姿を消すか。部下に適当な伝言でも頼んでおけば間違いもおきないだろう。
 よし。

 決断してカミューが腰を浮かしたその時だった。

「カミュー! 今朝ホウアン殿の所へ行ったと言うのは本当なのか!?」
「………」
 騒々しく入室の断りも無く入ってきたのは、当の男である。机に両手を付いて立ち上がりかけていたカミューはその姿勢のまま凍りついて、そんな相手を凝視した。
 だがそんなこちらの驚きなどお構いなしで、入ってきた時と同様の勢いで男はずんずんとやってくると執務机の前までやってきて、心配そうな顔をして覗き込んでくる。
「カミュー、もしかしてどこか具合でも悪かったのか」
「あ、いや……どうしてホウアン殿の…」
「部下が見ていた。青い顔をしてビクトール殿と共に医務室から出てきたと言うから心配になってつい、な」
 言って穏やかに微笑むのは、カミューが元気そうなのをその目で確認したからだろうか。途端にぎゅうっと胸が締め付けられるような気がしてカミューは軽く項垂れた。
「別に、なんともないのに……」
「あぁそのようだ」
 優しい声音が尚更胸を痛くする。
 名を呼びたいのに。
 どうして思い出せないのだろう。
 何度も口にしたはずなのに、まるでその重みそのものがカミューの中から消えうせてしまったかのように、まるで声にならない。
 大切なものなのだと理解しているのに、理性が口にするのを拒否しているような。想いと身体が相反して苛々とする。
「カミュー」
 呼ばれてピクリと肩が震える。
「食事はまだだろう。一区切りついているのなら、食堂まで行かないか」
 そんなカミューの心の葛藤を知らずに、常どおり誘いをかけてくれる。嬉しいのか哀しいのか分からなくて、それでも断ることなど出来なくて緩々と頷いた。
「うん、行こうか……―――」
 垂れ落ちた前髪をかき上げもせず、俯いたままカミューは机から離れた。そしてくるりと背を向けて先に歩き出すその後姿を見る。途端に切なさが胸をいっぱいに占めて遣り切れず、部下たちに小さく席を外すと告げた。

 名前を呼べないだけで、この胸に詰まる想いが形になってくれない。
 たったそれだけの事で、何処にも行き先を失ってしまったようなこの想いが、ぐずぐずと消えて無くなってしまうような、そんな気がしてしまうカミューだった。



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うわ、一月ぶりの更新ですみません。
カミューの予測外の行動をしてくれるマイクロトフが好きです。

2003/06/28