想いの根拠4


 マイクロトフが違和感に気付いたのは夜になってからだった。

 実際、カミューの不調は朝からの事なので、遅すぎたと言ってもいい時間の経過である。しかし当の本人が気付かれたくないとばかりに細心の注意を払って、日常どおりに過ごしたためもある。それで当日の夜にその違和感を何気なくとはいえ感じ取ったのは、マイクロトフならではと言えた。
 しかし、どこに不自然さが隠されているのかまでは生憎分からなかった。だからマイクロトフは直接尋ねるつもりで、そこにいる青年の腕に触れたのだ。
「カミュー」
 名を呼べば、琥珀の瞳が瞬いて小首を傾げる。なに? とこちらの言葉を待つその仕草に目を細めてマイクロトフは顔を近付けた。
「何か、俺に隠し事をしていないか」
 途端に逸らされるはずのない目が、若干揺れて確信する。
「言え」
「…別に……なにも…」
 言い淀む時点でその言葉から信憑性が失せるというのに。
 明らかに常と異なるカミューの様子にマイクロトフは更に目を細くした。
「答えたくないのなら今はそれで良いが、カミュー」
「う、うん……」
 追及がやんだところでふっとカミューの気が緩むのが分かる。なにをそこまで気を張っているのかがもう気掛かりで仕方ないマイクロトフだ。
 カミューはこうして裡に溜め込む癖があるから心配なのだ。
 素直に色々と打ち明けてくれれば良いのにと思うものの、それが性格だから仕方のないところもあるし、ひとりで何とかしようと思案を巡らせる強さはマイクロトフにとって好ましいところでもある。
「なぁカミュー」
「ん、なに……?」
 琥珀の瞳が瞬いてぱちぱちとまつげが動く様が酷く幼げに見えてならない。
「キスしても良いか」
「え、―――っ」
 仰のいていたのを良い事に、その細い顎を捉えてマイクロトフはその柔らかな唇に触れた。日常的なその行為に不自然なところはなかったはずだ。些か突飛だったかもしれなくとも。
 だから抗われたのが一瞬信じられなかった。
「ま、待て……」
「カミュー?」
「違う……違うから……頼む…」
 軽く触れ合っただけで弱く腕を突っ張ってマイクロトフの身体から引こうとする、その顔はいつの間にか真っ青に血の気を失っていた。
 そのこめかみを押さえてぎゅうっと目を瞑っている様は、とても尋常ではなかった。見ればその白くなった肌には幾つもの汗が玉のように浮き出はじめている。
「カミュー!」
「ちが……う……か、ら…っ」
 必死で何かを否定するように切れ切れにそんな言葉を繰り返し、こめかみを押さえたままゆるゆると首を振るう。
「な、大丈夫か!?」
「へ…いき……頭が、痛むだけ…」
 だが微笑むものの、呼吸も浅く冷や汗を浮かべてみるみる肌が白く透き通っていく様はとても平気そうではなかった。
「待っていろ直ぐにホウアン殿を呼んで来る!」
 こんな状態のカミューを放っていくのは心配だったが、一見してこれは医者の領分だ。言い残しざまマイクロトフは部屋の扉をぶち破る勢いで飛び出したのだった。



「何か心に強く負担のかかる事がありましたね?」
 そして駆け付けたホウアンは、一通りの問診を済ませると唐突にそう言った。
 カミューはそのホウアンの向こうに立って、厳しい顔でこちらを見ているマイクロトフを気にしつつ、躊躇いがちに頷く。

「思い出そうとしたんです」
「頭痛はその時に?」
「ええ」
 その状況を思い出し、また鈍い痛みが戻ったような気がしてカミューは顔を顰めた。
 傍にいるだけで息苦しい気がした。それは隠しているという後ろめたさと、同時にどうあがいても思い出せない事が理由だったろう。
 そして、何があったかの聞かれて何も答えられず、やり過ごせたかと思った途端にキスをされた。拒否するつもりはなかった。むしろ不安な気持ちを拭い去ってくれるような気がして歓迎すらしていただろう。
 それなのに一瞬過ぎった、大切な名前。
 思い出せないのに身体は全身でその名を呼ぼうと震えて、なのに理性と記憶がそれを拒否する。忘却の事実を肉体が否定をして完全にカミューを打ちのめした。途端にひどい頭痛が襲ってきたのだ。
 ただ名前を呼びたかっただけなのに。
 口付けに応えたかっただけなのに。
 しかし眩暈と吐き気を伴う頭痛は、到底耐えられるようなものではなかった。堪らずにその腕から逃れて頭を抱えていた。
 そんな事情であるので細かくホウアンに説明はしなかったものの、この医師は諸事情を心得ている。さほど詳しく言わなくとも確り理解してくれたらしい。深く頷くと眼鏡越しにカミューをじっと見詰めてくる。
「今もまだ痛みはありますか?」
「いえ、もう…」
 思い出すのを止めた途端に頭痛は消えた。まだ気持ち悪さが残っているが、あの激痛には程遠い。しかしその名残か視界に写る自分の手に血の気がないのが何だか情けなかった。
 そこで、ふとホウアンの向こうの気配が動いた。

「どういう事だ」

 低い声がまるで恫喝するような響きで耳を打つ。
「マイクロトフさん?」
 驚いて振り返ったホウアンが、見開いた目でまたカミューを見る。その目が説明していなかったのかと問うような色を宿した。気まずくて思わず視線を逸らしてしまう。
 そこにまた重い声がずしりと迫ってくる。
「説明しろカミュー。何が、どうなっている…?」
 ハッとして見上げれば精悍な顔が不機嫌そうに眉を寄せている。怖い顔だと思うのは気の所為だろうか。
 そして答えられずにいるとそう長く待ってもいられないらしい視線が、カミューからホウアンへと移った。
「カミューは何かの病気ですか」
「いえ、病気では…」
 そっとカミューの顔色を覗うように視線を彷徨わせつつホウアンがそう首を振る。事情を明かして良いものかどうかを判断しかねているのだろう。これでいてこの医師はとても口が固い。
「では、怪我か」
「あ、いえ…」
「だが今朝カミューはあなたのところへ行った筈だ。何もないわけがない」
「ええと、どうしましょう」
 困っていないような顔をしてホウアンが困ったと言う。その目に見詰められてカミューはこれまでかと溜息を落とした。
「そんな怖い顔をしてホウアン殿を睨むものじゃない」
 掌で顔を覆いつつカミューは溜息混じりに話しかける。
「カミュー」
 途端に不満げな声がした。
「わたしは病気でもないし怪我もしていない。おまえが心配するような事は何もないんだ」
「そんな青白い顔をしてか?」
 あぁやはりまだ顔色は悪いか、と苦笑してカミューはその問いには答えずにホウアンの方を向いた。
「すみませんホウアン殿。せっかく足を運んで下さったのですが―――」
「あ、ええはい。分かってますよ。もしまた気分が悪くなれば呼んで下さいね。あと、これを」
 さっさと立ち上がり、ついでに小さな紙袋を取り出して卓上に置いていく。
「気を落ち着ける漢方薬ですから、眠れないとか苛々するとかありました時に水で飲んでくださいね」
「あ、はい。有難うございます」
「では。マイクロトフさんも、あまりカミューさんを追い詰めたりしてはいけませんよ」
 扉をしめる間際にきっちり釘を刺してホウアンはあっという間に出て行ってしまった。結局のところ医者とは言え個人的な事には顔を突っ込むべきではないと心得ているのだろう。
 そしてしんと静まり返った室内に、二人だけの息遣いが際立つ中、怖い顔のままの男が一歩踏み出した。
「答えろカミュー」
「うん」
 頷くものの、どう切り出したものやら、悩む。
「……昨夜の事を覚えているだろう? 酒場での、アニタ殿の余興」
 無言が返る。顔を見れば眉間の皺が益々深くなっていて、怖さも一層だった。慌てて俯くとカミューは乾きかけた唇を舐めて続けた。
「あの催眠術が、どうやら今朝になって効いてきたようで―――その」
 ええと。
 手持ち無沙汰に己のこめかみを指先でかいたりしつつ。

「おまえの名前がどうしても出てこない」

 白状すると沈黙が降りた。
「おまえの事を忘れたりしたわけじゃないんだ。名前だけが出てこないだけで、他に全く支障はなくて。だから敢えて言う必要もないと思って」
 沈黙が耐え切れず付け加える。だがやはり相槌ひとつなくて不安がさっと胸を覆い隠す。遣り切れずカミューはそろりと顔をあげた。

「あ……」

 そこにあったのは、怖い顔でも驚愕の顔でもなく。

 青褪めた頬と、酷く傷ついたような眼差しがあるだけだった。



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シリアスになってきた……?
二人とも青褪めちゃってまぁ。次回から救済編突入かしら〜〜。
しかしカミュー視点だと「マイクロトフ」という名詞が使えないので面倒です。
早く元に戻ってくれ〜(いろんな意味で)

2003/07/13