想いの根拠5


「マイクロトフ…」
 思わずポツリと漏れた呟きにカミューの肩がピクリと震えた。痴呆のようにポカンと口を開けてマイクロトフを見ている。その顔をじっと見定めながら、続いて漏れ出たのは自分でも意外なほどの低い声音だった。
「俺の名は『マイクロトフ』だカミュー」
 いっそ別人の声ではないかと思うほどに、抑揚もなく感情の欠片も無い声に、カミューは何を思ったかすっと目蓋を伏せた。そして小さく頷く。
「うん……」
 なにかに祈るように頷いたっきり目を開けず、軽く首を傾げたまま何の動作も取らないカミューに、マイクロトフは直ぐに焦れた。気が付けば握り締めた拳が震えている。
「呼べ、カミュー」
 しかしカミューは目を閉じたままゆるゆると首を振った。そしてうつろな声で告白する。
「……呼ぼうとすると、頭が真っ白になるんだ」
「カミュー」
「嘘や冗談なんかじゃない。おまえの名前だけがぽっかりと、わたしの中から抜け落ちている。まるで知らない者の聞いたことのない名前のように、おまえの名前が―――」
「カミュー!」
 少し黙れと、そんなつもりで思わず大きな声を出して、とうとうと零れ落ちるカミューの言葉を遮っていた。すると琥珀の瞳が開いてマイクロトフを何か言いたげな表情で見上げた。
「……すまん、怒鳴るつもりでは…」
「………」
 気まずい沈黙が降りてマイクロトフは知らず顔を顰めていた。そしてカミューがまたもや俯く。
「カミュー、俺は」
「すまない」
 言いかけて、短いカミューの謝罪にグッと言葉が詰まる。そして落ち着いて見やればその表情は未だに青褪めたままで、恐らく朝からそうしてずっと張り詰めていたのだろうに、夜になって漸くそれが表に出てこの様だ。
「俺は怒っているわけではない」
 不満のように言い返すとカミューはその口元に薄らと自嘲げな微笑を浮かべた。
「でも、嫌だろう? 自分の名前を忘れられるなんて―――もしこれが逆の立場ならわたしはとても……つらい」
 おまえがわたしの名を呼んでくれないなんて、小さく呟いてカミューは少し嫌そうな顔をした。それからそっと窺うようにマイクロトフの目を見て、またその顔を伏せてしまう。
「カミュー」
 マイクロトフは歩み寄って腕を伸ばすと、切なげに揺れる金茶の髪ごとその頭を抱え込んだ。
「大丈夫だ。直ぐに元通りになる」
 だからそんな顔をしないでくれ。
 マイクロトフのそんな思いは通じているのか、カミューは抱き締められるままに胸に頬を預けて黙り込んでいる。
 結局その夜は、カミューの唇からマイクロトフの名がつむがれることのないまま更けて行き、ホウアンの薬が役立ち虚ろな琥珀の瞳が静かに閉じられるまで、マイクロトフは喉の奥に何かが詰まってしまったような心地のまま遅くまで起きていたのだった。





 名前と言うのは人格を記憶する上で重要な役割となる。いわばびっしりと文字を書き込んだ書類を纏めた表紙のようなものだ。表紙を一瞥して大抵の内容を思い出せるように、人の名前というのもそれだけで覚えたその人物の特徴だの性格だのを思い出しやすくする。
 また名前を知っている事で、他者との情報交換にも有利に役立つ。
 第三者を語る上で、名前は必須要素だ。無ければないで愛称なり代名詞をつけて呼ばねばなるまいが、汎用性にとんだ固有名詞、いわゆる名前はその人物を語る上でとても便利だ。名前を出すだけで会話の相手もその人格を難なく記憶の表面に呼び出せるのだから。
 つまり、カミューにとって誰よりも親密である男の名前が思い出せないのは痛恨以外のなんでもなく、酷い不便を強いるのだ。同じ元マチルダ騎士を統べる者同士、どうしても常に連携を取らざるをえない。何をするにしても忘れてしまった名前はとにかくカミューを悩ませた。
 しかもこの両者にとってこの問題はそれだけには留まらない。
 いわゆる恋人同士という括りにある二人にとって、名前とはそれ以上に魂の呼び名でもある。お互いの名を呼ぶだけで存在を確かめ合い、思いを交わす行為に等しい効果を持っていたのだ。

 昨夜、カミューは「これが逆の立場だったら」と考えて、実際そう口にもした。その仮定はたった一瞬過ぎっただけでカミューを見事に慄かせてくれた。
 あの顔が「カミュー」と名を呼んでくれないなんて、本当につらい。
 つらい、というよりも寂しい。
 あの耳に心地良い低音で囁かれるように名を呼ばれるのが好きだ。まるで詩の一節のように自分の名前が大きく広い意味を持ったものに変わる瞬間だ。
 自分が彼の名を呼ばわる時にも、同じようにあれば良いと思いながら、大切なものをいとおしむ様に口にしてきた。それなのに―――どうして。
 何故、自分はそんな大事な名前を忘れるなんて暗示にかかったのだろう。何か、理由があるのだろうか。思いあたるものなど何もないが、こうなったからにはきっと原因はあるに違いない。

 あてどのない原因探査の深みにはまって、カミューは憂いの濃い溜息を零した。
 そしてそれを見ているのが、部下たち一同である。
 もう唯一の人にばれてしまえば、後はなし崩しである。部下たちはもうカミューが大切な名前を思い出せないのを知っていた。そしてそれゆえに悩む上司の姿も。

「カミュー様、その、宜しければこちらにご署名を」
「ああ……」
 さらさらとインクが紙に染みていく。上の空で署名された書類は纏めて軍師に提出されるべきものなのだが、果たしてこれで良いものか。
 だがそうして彼らが良い知恵も浮かばずに考えあぐねていると、扉が控えめにノックされて、青騎士の一人がひょいと顔を見せた。そして一番近くにいた赤騎士を呼び寄せて耳打ちをする。
 その何事かを伝え聞いた赤騎士は、何度か頷くと扉を閉めて去って行った青騎士の気配に笑みを浮かべて、広い机の前で書類を見詰めながら動かないカミューの元へと歩み寄った。
「カミュー様」
「………」
「カミュー様。マイクロトフ様から伝言です」
「…………」
「カミュー様?」
 返事が無い。
 通常ならマイクロトフの名を聞いただけでも即座に反応を見せるはずが、これはやはりただ事ではない。赤騎士は息を呑んで、無礼は承知で机に手をつき上司の顔を覗き込んだ。
「カミュー団長! 確りなさって下さい!!」
「うわっ」
 思わず慄き、後ろに仰け反ったカミューに赤騎士は頷くとコホンと咳払いをひとつした。それからおもむろに悩みに憂える上司の気分転換にもなればと、笑みを浮かべて改めて言ったのだ。
「カミュー様、マイクロトフ様より伝言が」
 と。
 ところが、カミューはきょとんとしてその瞳をぱちくりと瞬かせたのだ。
「え、誰……かな」
 カミューのその、ごく自然な口調に赤騎士の背を冷たいものが滑り落ちた。
「…カミュー様?」
 知らず震える声で見開かれた琥珀の瞳を見詰めるが、そこには偽りの欠片さえ見つけられない。ならば本気で言っているのだと、そう知った瞬間に赤騎士の全身に鳥肌が立った。
 有り得ない状態が、今ここにある。
「誰と仰いましても、その……マイクロトフ様ですよ…?」
 だがカミューは首を傾げたまま、思い出すように目を何度も瞬かせている。ところが不意にその瞳がハッと大きく瞠り、身体がギクリと目に見えて強張った。
 それからみるみるその顔が青褪めて、わななく唇を掌で覆ってカタカタと肩を震わせはじめるではないか。
「な……わたしは……ど…して…」
 こちらの胸が痛くなるほどに取り乱した声を出して、カミューは机の縁ににもう一方の手をつくと、身体を引いて前屈みに項垂れるとそのままの姿勢で暫く動かなくなってしまった。
「カミュー様―――い、医者を…」
 その青褪めた顔によっぽどの事がと慌てた赤騎士がそう言うのに、しかしきっぱりと拒否だけは返った。
「いい……平気だ」
 しかしその声はやはり弱い。
 それも当然のことだろう。

 一瞬のこととはいえ、完全にその存在を忘れていた。
 名前だけを忘れるなどと生易しいものではない。
 名前ごと人格そのものが、カミューのなかから消え失せていた。

 そのあまりの衝撃にカミューは愕然としつつ、進行していく暗示に恐怖すら覚え始めるのだった。



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ええと、救済編は次回に持ち越しで(笑)
取り敢えずカミューの悲愴具合を増してみました

2003/07/26