罪無き名前


 慣れないその手触りに目覚めたのは、これで何度目だろうか。
 マイクロトフはそろりと目を開けると、予想の通りにそこに幸せそうに脱力しきって寝そべる、愛らしい存在に微かな嘆息を漏らした。
「レディ……」
 熟睡している彼女を起こさない様に、マイクロトフは慎重に息を詰めてゆっくりと首だけを巡らせた。戸が僅かだけ隙間を開けている。また夜更け器用に押し開けて入って来たのだろう。
 レディ―――カミューがそう名付けた猫は、朝の空気に満たされた室内で、マイクロトフの胸の上、無防備に寝息を立てていた。



 そろりと慎重に胸の上から降ろそうとすると、必ずと言って良いほどレディは目を覚ます。起きて活発な頃は大きく杏型に開かれている瞳を、眠気に細く瞬かせ何度も欠伸を繰り返しては背を伸ばす。そしてマイクロトフが着替える間、まだ温もりのあるベッドの上に座り込んで眠たそうにその様を眺めているのだ。
 そしてマイクロトフがダンスニーを携え部屋を出ていこうとすると、身軽にベッドから降りて一緒にその扉をくぐると、そのままどこかへと去って行くのだ。

「毎日、と言うわけではないから起きた時に余計に驚いてしまうぞ」
 昼食の後に、そんな朝の出来事をカミューに報告するのももう何度目の事だろう。
「よほど好かれているようじゃないか」
 ことり、とティーカップを置いてカミューは柔らかく笑う。それをマイクロトフはじっと見つめて幸せを噛み締めた。
 カミューとの午後のひと時、こうして向かい合ってお茶を飲みながら他愛ない会話を交わす事。その間だけは思う存分に彼を見つめることが出来る。それはマイクロトフにとって限りない幸福の瞬間だった。
「わたしの顔に何かついているか?」
「ん? ……いや」
 何も、とマイクロトフはすっかり冷めたお茶を口に含んだ。だが、空になったティーカップをテーブルに降ろす前に、カミューの手が伸びて手首を掴まれた。
「何だ?」
「……………」
 返事は無く、ただ白い手袋の指先がマイクロトフの手首をなぞった。
「カミュー?」
「―――これは引っ掻き傷か」
 カミューの指が撫でたそこ。ほんの僅か赤い線が走っている。
「あぁ」
 頷いてマイクロトフはカミューの手が離れると、そこを手で覆った。
「レディを相手に不覚を取ってしまってな」
「……どう言う事だ?」
 カミューはかくん、と首を傾げた。
「いや、今朝少し時間があったからな。じゃれ付いてくるのを指先で遊んでやっていたんだ」
「―――なんだ、そう言う意味か」
「カミュー?」
 小さな呟きはマイクロトフには真意が汲み難い。だがカミューは相変わらず穏やかな笑みを湛えている。しかし、どこか様子が違う。何が、とは正確には言えない。ただ纏っている空気が微妙に変化した。
「カミュー、どうかしたのか?」
「どうもしないが?」
 逆に聞き返されてマイクロトフは言葉に詰まった。すると、少しばかりカミューの雰囲気が緩んだ。見ると、カミューは苦笑を浮かべている。
「なぁマイクロトフ。少し提案がある」
「な、なんだ?」
 カミューはにっこりと笑うと、もう一度マイクロトフの手首を掴んだ。そして、ぐいと自分の方に引き寄せると、傷の上を指の腹で何度も撫でてから、軽く啄ばむようにくちづけた。
「かっ…カミュー?」
 うろたえてガタッと椅子を鳴らすと、カミューが小さく声を立てて笑った。そしてニヤリと意地悪く笑ってマイクロトフを見据える。
「あの猫のお嬢さんの名前を新しく別に考えよう。レディでは紛らわしい」
「紛らわしい…か?」
「ああ」
 カミューはくつくつと笑って頷くが、マイクロトフは突然の提案の理由が分からず、ただただ飛び跳ねた心臓を宥めるのに必死であった。


END | 3rd story



安易な名付けは後々の後悔の元
ちなみに我が家の愛猫の名は“ハナ”
別候補の“タマ”と争った挙句の名前だが…争うほどか(笑)
最近は“はにゃん”と呼んでいるのであった

2000/06/27