俎板の上の恋


作  金田清志

 【その4】


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 日出子への愛を感じなくなっても、結婚を止めようと思わなかったのは、既に全ての予定が決まっていた事もあるが、日出子に変わる女はいないし、義務というか責任のようなものも感じていたからだ。今ではもうある時期となるが、つい最近まで日出子に夢中になっていた事は確かであり、結婚したいと願った事も確かなのだ。

 日出子に代わる女が現れたとしたらどうだろう。この結婚の話はなかったことにしてほしいと言えるだろうか。今更そんな事ってあるか、となじられ非難されるのは明らかだ。それでもやり通せるかどうかは判らない。直面してみなければ判らない。心のありようとしてはそういう可能性も有りえる訳で、あながち私が間違っているとも思えない。日出子を愛したのも、愛が希薄になったのも、私自身なのだ。

 仮に私にではなく日出子に同じような事が起こったら、私はどんな対応をするだろう。他に男がいれば別だが、残念に思うだけで結婚はするし、別にそんな事に拘泥する事はない、と意に介さないかも知れない。私が愛していれば充分で、プロポーズを受けてくれた事で、それで充分なのだ。私にはそれ以上必要のない事だ。とは言うものの、やはり淋しい事には違いない。

 日出子から会社に電話が掛かってきて、待ち合わすことになった。場所は会社に来ると言う。勤めていた会社だから勝手知った場所には違いないが、私はなんとなく気まずく感じた。それはお互い結婚前の身であり、そうでなくても何かと冷やかされる立場なのに、とよけいな気遣いをしたからだ。日出子が会社を辞めてから初めて会社に来ることになる。日出子は社内に逢いたい人がいるという。

 成瀬友香里に社内電話が入ったのは五時頃だった。受付からで、私は日出子だなっと思った。

「何処から掛けてるの。…、なんだそっちへ行くよ。いるわよ。代わる? …、そうだね、じゃあ判ったわ」

 何を話しているのか気になるが、私は素知らぬ風を装っていた。日出子が会社に来れば友香里に連絡を取るだろうと思っていた。私とは時間を決めていた訳ではないから、終業時間後に友香里と逢うのだろう。

「日出ちゃん来たわよ。三十分ぐらい私にちょうだい。それぐらいいいわよね」

 と受話器を置いて友香里は言った。

 三十分だけ日出子と二人で話したいと言うのだ。別にそんな事、と思いながら頷いた。

「何処にいるのか電話をしろって言って」

 終業時間になって出ていく友香里に、私は気安く言った。

 三十分だけとは言うが、そんな時間で済む筈はないと思っていたが、一時間近く経っても連絡がない。私は何時でも出られる用意をして待っていた。恐らく一階のロビーの何処かで、あるいは近くの喫茶店にいるのだろう。電話をしてくれと言った手前、待っているしかなかった。連絡が入ったのはそれから十分程経ってからだった。近くの喫茶店にいると言う。

 指定された喫茶店に行くと、まだ話していたが、私を見て日出子が「もう出るわ」と合図した。私は外で待つ事にした。

「ご免なさい。だけどたまにはいいでしょ。二人で逢う時間はこれからいくらでもあるんだから」

 と友香里が言った。

「そうね、」と笑いながら日出子が応えた。私はただ笑っていた。

 友香里とはそこで別れた。

「随分長かったじゃないか」と私。

「ご免なさい。友香里と話すと長くなっちゃうのよ」

「食事に行こう、何処に行く?」

「『ぼんち』がいいわ」

 『ぼんち』には思い出がある。日出子がまだ私との関係に迷っていた頃、つまり口説くために何度か通った店だ。その頃の日出子には私以外にもう一人の男がさかんに近づこうとしていた。私の意識の中ではその男と争っていた。無論男とは話した事も親しくもないが、少なくとも何度か日出子に声を掛けているのを見たし、私を見る目も意識しているように感じた。私は日出子を誘うのにも気合いが入った。もう一人の男と日出子がどんな付き合いなのか、はっきりした事は判っていなかったが、競争相手がいると思うだけで一層のめり込んだ。それだけ日出子に惚れていた。

 何故『ぼんち』に行きたいと言うのか、日出子が好きな店だからだろうが、二人で行くのは久し振りになる。私はちょっぴり複雑な思いがする。出来れば今の私には行きたくない場所の一つだった。日出子に惚れて夢中になっていた頃の私を思い出すし、それから覚めた今の自分を思うといやになる。いや完全に覚めているのではなく、あの頃の心の高まりはなく、それに気づいていても自分の心はどうする事も出来ない。心の呪縛から解き放たれてみれば、気恥ずかしく愚かにさえ感じてしまう。

 そんな思いとは別に、どうして日出子から心が逸れてしまったのかと思う。まだ何年も経っていないではないか。少なくとも一月前は確かに日出子に夢中だった。結婚して何年も経ったのなら、それは誰にでもある事かも知れないが、結婚式を控えている身なのに…。

 喫茶店を出ると日出子は私に寄り添うようにして歩いた。会社の近くだから知っている人にも出会う。その度に笑顔を振りまいていたが『ぼんち』に入ると疲れたのか無口になった。

「久し振りに会社に来て、どうだった」と私。

「やっぱり、懐かしいわね」

「また勤めたい」

「そうね。考えちゃうわね」

 日出子は結婚後もまだ仕事を続けたいと言っていたが、会社を辞めたのは社内にそんな雰囲気があったからだ。社内結婚した女性は必ず辞めている。規定がある訳ではないがそういう雰囲気があった。社内結婚ではなくとも多くは辞めていく。結婚後も残っている女子社員もいるが、小数だった。

「このお店も、久し振りね」と日出子が言った。

「よく来たよな」と私。

「思い出す?」

「何を…」

 今日の日出子はどうかしている。喫茶店を出た時から私に絡みつくように密着して離れようとはしないし、愛想が良過ぎるというか、誰に対しても笑顔を向けていた。それは久し振りに会社にきて、自分は幸せだと言いに来たようにもとれる。無論、幸せには違いないのだろう。結婚式を間近にして、心は幸せで一杯なのだろう。しかし私にはそれに付いて行けない心の陰がある。一月前の私なら、いや一週間前でも、私も同じように幸せな気分になれただろう。今の私は結婚式を控えてただじっと待つ心境だった。

 この店で思い出すのは、最初にプロポーズした事と、その前はじっと日出子が来るのを待っていた事だ。恐らく日出子は私が待っていた事など思い出として覚えている筈もないから、プロポーズの事を思い出しているのに違いない。

「もう忘れたの?」と日出子が言った。

「なんのこと」と私はとぼけた。

「やだぁ、そんな風にとぼけないで」

「だからなんだよ。色々あるから…」

「一番大事な事よ」

「ああ、あれ」

「思い出した?」

 私は笑いながら頷いた。私はと言えばもうそれは終った事で、つまり日出子が私との結婚に頷いた時点でそれはもう過去の事だった。言った事に一応の責任は感じるが、日常の中では思い出す事は殆どない。感動は日々薄れていくと言うが、その時の感動も今思えば照れ臭いような気がする。思えば恋こがれていた時はなんの衒いもなく言えた事が、時間が経つと思い出すだけで照れ臭い。それはこうして日出子といる事で、たとえ反対の結果になったとしても、もう終った事だった。例えば何十年か経てば、いやそんなに経たなくとも、何を言ったか完全に忘れているかも知れない。そう応えたらなんと言うだろう。

 不動産屋からもらってきたチラシを広げて、日出子は印をつけてある物件を指した。二人で住む住宅を探しているのだ。私は安アパートでの一人暮らしだから、会社に通えるなら何処でもいい訳だが、日出子の持ってくるチラシは実家の近くが多い。新聞の折り込み広告だから当然そうなるのだろうが、私としては通勤時間が三十分も遠くなるのは少し不満だった。それを言うと、

「三十分ぐらいなんでもないじゃない」と言う。

「私だって通っていたのよ」とも言った。だけど朝の三十分は私には貴重だ。でも三十分だけ早起きすれば済む事で、日出子が実家に近い場所がいいと言うなら、それに異論を挟もうとは思わない。探している物件は少なくとも二部屋あって、駅から歩いて十分以内と決めていた。

「今度の休みには決めましょうよ。そうしないとなんだか落ち着かないわ」

 と日出子が言った。一応「そうだね」とは言ったが、私には難しい好みはない。駅から歩いて行けて、日当たりが良ければ、極端に言えば後はどうでもいい。日出子は台所が汚いとかトイレが汚いとか、近所の環境が良くないとか何かと七面倒臭い事を言う。女だから仕方のない事かもしれないが、日出子がどこかで妥協してくれなければ決まりようがないから、これでもう決まったようなものだ。今は借りて市場だと言うから物件は数多くある。結婚したからといって直ぐ一緒に住む必要はないが、決めておくに越したことはない。

 日出子が実家に近い方がいいと言うのは、何か困ったことがあったら実家で聞けるからと言ったことがある。「私料理は全く出来ないからお母さんになんとかしてもらう」と言ったこともある。前にも確かにそんなことを言っていたが、本当だとは思っていなかった。それが住むアパートを探すのに、実家に近い理由の一つとして言われるとなんだか真実味をおびて聞こえる。不思議なことに夢中になっていた時にはそういう事も愛らしさの一つに思えたのに、何か不安な気分になる。

(続く)

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[「文学横浜」30号に掲載中]

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