俎板の上の恋


作  金田清志

 【その5】


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『ぼんち』を出て歩き出してすぐ、

「あなたは変ったわ」とぽつりと日出子が言った。

「何が?」と私は振り向いた。

「何が変ったのよ」

「そう思えるの」

「変ってなんかいないよ」

「そうならいいんだけど、私、あなたに百パーセント愛されて結婚したい」

 私は笑いだしたくなった。そういう事を言う日出子が、可愛らしいと言えば可愛くもあるが、何故か滑稽に思えた。それに私がプロポーズで言った言葉と似ていたのでよけい滑稽に思えた。

「どうして急にそんな事を言うの」

「だって、私には大事なことなの。女性にはとっても大事なんだから…」

「判ってる」

「そんな、簡単に言わないで」

「じゃあ、どう言えばいいの。まるで俺が判ってないみたいじゃないか」

「保夫さん、プロポーズの言葉を忘れたの? 私、忘れてほしくないわ」

 日出子に保夫さんと呼ばれたのは初めてだった。福島さんと呼ばれていたのだが、初めて名前で呼ばれてみると耳の中がなんとなくくすぐったい。それにプロポーズの事を言われると照れ臭いような気分だった。言えと言われても二度と言えないし、その時だからこそ言えたのだ。どうしてもと懇願されれば考えるが、どちらかと言えば二度と言う気にはなれない。

「君は今日、どうかしてないか。久し振りに会社に来て、気持が変になってるんじゃない」

「そんな事ないわ」

「いや、きっとそうだよ。こんな処で立ち話をしてて、変に思われるといけないから行こう」

 私は日出子に歩くように促した。

 日出子は一歩下がって歩いている。『ぼんち』に行く時とは打って変って、まるでだだをこねたように私の後をついて来る。理由は判っているから無視していたが、いつまでもほっておけないので日出子が来るのを待った。もう二メートルも離れていた。

「疲れたの」と訊いた。

 それには応えず、日出子は不満そうな表情をしていた。

「何処かで休んで行く?」と重ねて訊いた。

「行かない」とすぐに一層不満そうな表情で言った。ホテルにでも誘われたと思ったのだろうか。前にそんな感じでホテルに誘った事がある。その時は「休むって何処に行くの」と訊いたから冗談のつもりでホテルまで行って「ここ」と言うと「やっぱり」と言った。無論その時はそのままホテルに入った。

「せっかくここまで来たんだから『ノクターン』に行ってみる?」

 と私は言った。会社に勤めていた頃、そこのケーキが美味しいと何度か付き合わされた事がある。場所も近い。

 店の名前を聞いて心が動いたのか、日出子は行かないとは言わなかったが、機嫌がよくなった訳ではない。機嫌のよくない原因は恐らく私が百パーセント愛しているとはっきり言わなかったからだ。プロポーズの時には言えたのに、何故言えないのかというと、日出子との結婚が決まっている以上、もうその必要はないと内心思っていたからだ。もともと百パーセント愛しているなんて、そんな事は有りえる筈はなく、そうした心を伝えただけなのだ。まあ日出子が私に百パーセント愛されたいと言うのも、そうした心が聞きたいのだろうが、私にすればもう関係がはっきりしている以上そんな見えすいた事は言いたくないし、第一言ってくれと言われて言える言葉ではない。酒を飲んだ勢いで、或いは戯れに言えなくもないのだが…。

 日出子でなくてはいけない、と言う呪縛から解き放たれたのは何時からか。それを思うと、皮肉な事にホテルの一室で裸になって日出子と向い合い、躰を合わせ、その後からではないかと思う。無論、日出子の全てを知ったと言う訳ではないが、少なくとも未知の部分はなくなった。結婚式の準備を進めていく過程で少しづつ日出子の内面も見えたような気もする。考えてみれば結婚相手は日出子でなければいけないと思ったのは錯覚に違いないのだが、それは日出子にも言える事で、私は早くそれに気付いてしまったのだ。それに気づいたからと言って、日出子に代わる女がいるかと言えば、いや日出子以上の女がいるかと言えばそれはなんとも言えない。

 日出子の心の内を斟酌する事は出来ないが、私との結婚に少しの疑念を持っているようには思えない。しかしそれは表面だけで、内心では私を択んだ事を後悔しているかも知れない。勿論、私が積極的に働き掛けて日出子の心を捉えたのだが、少なくともそれからは日出子の心は私に向いている。無事に結婚式を済ませて一緒に生活すれば、もっともっと日出子を知るようになるだろう。夫婦になると言う事は、と漠然とそんな事を思いつつ、七面倒くさい事はもう考えないで、これは縁なのだと自分に言い聞かせた。

 『ノクターン』に行くと日出子は目当てのケーキと紅茶を頼んだ。私と日出子の分は別々で、分け合って食べる。と言うより私は殆ど一口程度しか食べない。何処に行ってもケーキを頼むとそういう事になる。

「毎日家にいると退屈にならない」

 とケーキを待っている間、日出子に話しかけた。

「なに言ってるの、準備で大変なのよ」

「そんなに、」

「色々とする事があるの。そんな退屈なんかしてないわ。今度の日曜日だけど、時間あるかしら」

「アパートを見に行くんじゃなかった?」

「その後よ」

「いいけど…、」

 日出子が言うには友達に紹介したいと言う。日出子が通っているヨットサークルの仲間達で、そこのクラブハウスに一緒に行ってほしいと言うのだ。そういうサークルに出入りしていた事は知っていた。日出子に頼まれれば断る理由はない。どんな人達と付き合っていたのか知りたい気持と係り合いたくない気持が半々だったが、私は承諾した。

「いい人達だわよ」と日出子が言った。

 三浦海岸の近くで、日出子の実家から車で行けば一時間ぐらいの処だと言う。

 恐らく男が多いのだろう。男達に囲まれて日出子がそのサークルでどういう存在なのか。最近は余り出掛けていないと言うが、結婚後はどうする積もりなのか気になる。もし続けたいと言うなら止めさせる気持はないが…。

「その前に、明日君枝に会ってくれない? 明日が駄目ならその次の日でもいいわ。君枝には絶対に会ってほしいの」

「わかった」と私は言った。

 君枝は日出子の学生時代からの友人で、何度か聞いていた。山本君枝と言い、結婚式では友人代表としてスピーチをして貰う事になっている。本人は一足早く結婚しているがまだ子供はいない。

 私は「何処にでも行ってやる」と言う気持だった。日出子の友達ならこれからは会う機会もあるだろうし、日出子が出掛けていた処なら、私も行かなければならなくなるかも知れない。結婚相手が誰でもそういう事は有り得るし、むしろそうするのが相手に対しての礼儀なのかも知れない。少なくとも紹介できないような人や場所ではない、と言っているようでもあり、日出子という人を知ってほしいと言っているのかも知れない。

 考えてみれば日出子と二人だけの付き合いは短かった。私のプロポーズが性急だったのかも知れないが、お互いにずるずると付き合っている年齢ではなかった。当然の事ながら、結婚が決まってからは他の男からの誘いはなくなったと言う。日出子は男から見て誘いたくなる女で、それだけに付き合っている男も何人かいると思っていた。面と向かって訊いた事はないが、私の意識の中にはそんな思いがある。私が日出子に惚れたのも結局はそんな人なつこいところに魅かれたのだ。でもプロポーズした時の熱情が覚めてみれば、社交的なのはいいとして、自分もそれに巻き込まれてしまう危惧もある。惚れ込んでいた時にはそれも魅力の一つだと感じていたが、なんだか煩わしいと思うようになった。そんな自分の変化を情けないと思いつつ、惚れた女なのだと自分に言い聞かせた。

 運ばれてきたケーキを、私の一口分を別けながら言った。

「会うって言っても、彼女は自宅から来るんだろ」

 日出子はもう一方のケーキを二つに分けている。

「出て来るわよ。旦那もこっちに通ってるんだからきっと出て来るわ」

「わざわざ悪いような気がするな。こちらから行った方がいいんじゃない」

「そんなに時間がないじゃない。君枝なら大丈夫。出て来てくれるわ」

 君枝と連絡がついたら、その時は会社に電話をすると言うことで、その日は別れた。日出子を近くの駅まで送って、帰宅したのはもう深夜だった。私にも紹介しておいた方がいい学生時代からの友人はいる。結婚式に呼んでいる三人で、その中の二人は既に結婚している。いずれも年賀状の遣り取りをしていて、家にも電話が掛かってくる。結婚している一人には結婚前に婚約者を紹介された。もう一人には付き合っている頃から紹介されていた。友人達からもどんな女なのか紹介しろと言われている。紹介する積もりでいたのだが、なんとなく延びのびになっていたのだ。結婚式まではもう限られた日数だが、これも通らねばならない儀式だと思った。こうして精神的に追い詰められてくると、何がなんでも兎に角乗り越えなければいけないと思う。

(続く)

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[「文学横浜」30号に掲載中]

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