道後全私研速報「海道」秘話その1

発端−「道後全私研!?ウソだろ!断ってしまえ!」−

 1999年夏の道後全私研開催を、初めて聞いたのはいつだっただろうか?すっかり忘れてしまったが、1998年の3月頃ではなかったか?と記憶している。愛媛私教連書記長が、東京へ行った時に、全国私教連の首脳陣に「道後でやるからね」と言われたのが最初だったと思う。さて、それを受けて愛媛は大騒ぎ(?)であった。もちろん冗談としか思っていない者もいたが、もしかして…という気持ちで、即刻断ることを執行委員会で決定した。その決定を受けて、責任感の強い愛媛私教連委員長は、全国私教連に何度も電話で開催地の変更を頼んだが、最終的には「現地の私教連だからといって、全私研開催地について云々することはできない」と言われる始末であった。

 全国私教連は横暴だ!という気持ちもあり、もっと声を大にして断る必要があるという者と、あきらめて対策を練る者とに別れていった。11年前の道後全私研経験者からは、本当に大変なことになった…というオーラが発散されていた。何も知らない青年教師も、お気楽なムードではなかった。経験者がいるから・・・という安心感はあるものの、その経験者から感じるオーラは、常日頃の組合活動の中で感じる安心感・信頼感とは異質なものであった。

 1998年7月末。青森全私研が開催された。全国私教連委員長に直談判をして、道後全私研を阻止する使命もった精鋭8名が、青森へ乗り込んだ。ある単組の委員長は、「命に代えても断って来い!」と言う始末である。

 なんと前夜祭で、次回開催県として挨拶をして欲しいという要請があった。こいつは渡りに船とばかりに、思い切って前夜祭の場で断ろう!ということになり、これなら、大丈夫だろう…と誰もが思った。少なくとも、愛媛は困っている…道後全私研が不成功でも仕方がないくらいの世論は得られると思っていた。上手くいかないと悟っていたのか、愛媛私教連委員長は、早々と前夜祭会場を後にして、ホテルの部屋にこもっていたことを知るのは、全てが終わってからであった。

 さて、前夜祭の出し物が進み、周囲は盛り上がっていくにつれて、愛媛の人間は落ちこんでいく。来年、下手をすれば、こんなことをしなくてはいけないのか…という不安が大きくのしかかってくるのだ。津軽三味線もスライドも、ましてや「ねぶた」の踊りが披露される頃には、不安に押しつぶされた表情の愛媛県参加者であった。
 いよいよ次回開催県の挨拶となった。団長のモックンを送り出す。前夜祭の出し物である「ねぶた」の踊りの余韻が渦巻く会場の雰囲気に、モックンは飲まれていた。誰も、それを見抜けなかった。そして、「断る」もしくは、「控え目な挨拶をする」予定が…。

 「来年は、しまなみ海道という橋が架かります。それにちなんでというわけではありませんが、第30回記念全私研にふさわしく、21世紀への明るい展望を開くことが出来るように、私学の将来に橋を架けることができるような道後全私研になるようにがんばります。」

と、モックンは大風呂敷を広げてしまった。沸きかえる会場の雰囲気をよそに、愛媛からの参加者は暗く沈んで行くのであった。モックンのバカ・・・。

 その後、モックンは道後全私研が終わるまで、いや、終わっても「橋を架ける男」として、愛媛では一躍有名になってしまったのでした。

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