1201年 (正治3年、2月13日改元 建仁元年 辛酉)
 
 

4月2日 辛巳 晴
  越後の国の馳駅参り申して云く、城の小太郎資盛(城の太郎助永男、長用甥)当国に
  於いて北国の輩を招き、叛逆を企てんと擬す。佐渡・越後両国の軍兵これを襲うと雖
  も、資盛猛威を振るうの間、敢えて陣を破ること能わずと。
 

4月3日 壬午 晴
  遠州・廣元朝臣・善信等参会す。越州の飛脚に就いて、資盛謀叛の事、在国の士に仰
  せ追討せらるべきや否や。当参の輩を遣わさるべきや否や。各々評定を擬さる。而る
  に長用これを誅せらると雖も、その伴類未だ散ぜざるの時なり。尤も用意を廻らさる
  べきの処、何ぞ一人と雖も、当の壮士を失うべけんや。早く在国の士に仰せらるべし。
  但し折節当国に然るべき輩無し。佐々木三郎兵衛の尉盛綱法師(法名西念)上野の国
  磯部の郷に有り。彼の者に仰せらるべし。仍って越後の国の御家人等を催し、資盛を
  誅すべきの旨、御教書を盛綱入道に遣わす。件の御教書義盛これを給い、飛脚に付け
  上州に下し遣わすと。
 

4月6日 乙酉 晴
  夜に入り義盛が飛脚上野の国より帰参す。申して云く、御教書を西念の宅に持ち向か
  う。折節西念門外に有り。立ちながらこれを拝見し、門の内に入ること能わず。則ち
  門の傍らに立つ所の鞍馬これに乗り、即ち鞭を揚げ越州に馳せ向かうと。郎従等路次
  に追い至り、楚忽の由を愁う。西念云く、吾聞く。天慶年中平の将門東国に於いて叛
  逆を企てるの時、宇治民部卿(忠文)を以て追討使と為す。而るに膳を羞むの間、こ
  の宣下有るべきの旨を聞き、戸部箸を抛ち座を起つ。即ち参内し節刀を給うの後、帰
  宅すること能わず。直に洛外に赴くと。勇士の志す所、これを以て善と為すなりと。