1201年 (正治3年、2月13日改元 建仁元年 辛酉)
 
 

5月6日 乙卯
  昨日、佐々木中務入道(経蓮)、子息高重を以て一通の疑状(去る月二十一日の状)
  を捧ぐ。今日遠州善信を以て彼の状を披露せしめ給う。これ身に於いて所犯無しと雖
  も、傍人の讒に依って御気色を蒙るの條、愁訴を含むと。その旨趣、初めに科無きの
  旨を謝し、後に数度の勲功を載す。去年七月用心を致す事、大和の国の賊首等謀叛を
  企て王城に群集するの由、諸方の告げに就いて、淡路・阿波・土佐三箇国の御家人等
  を召し聚む。頗る忠節と謂うべきか。随って彼の時に当たり、圓識法師と号する者叛
  逆を巧み、縡露顕するの間、伊賀の新平内が為に生虜らる。経蓮が用心を怖畏せしめ、
  宿望を達せざるの條掲焉なりと。勲功と謂うは、関東草創の最初大夫の尉(兼隆)を
  誅せしめ給うの時、経蓮兄弟四人、討手の人数に列なりしより以降、世静謐に属くの
  今に至るまで、度々身を忘れ命を棄て敵陣を破ると。爰に評議の淵源を究められ、免
  せらると。但し所領等に於いては、只今は返し付けられずと。
 

5月13日 壬戌
  佐々木の太郎高重、父経蓮御気色厚免の御教書を帯し帰洛す。遠州並びに廣元朝臣等
  餞馬を遣わさると。
 

5月14日 癸亥 晴
  佐々木三郎兵衛の尉盛綱入道が使者参着し、一封の状を捧ぐ。義盛御所に持参す。善
  信・行光御前に於いてこれを読み申す。その状に云く、日来城の小太郎資盛、朝憲を
  謀り奉らんと欲し、城郭を越後の国鳥坂に構う。近国の際忠直を存ずるの輩、なまじ
  いに来襲すと雖も、還って悉く以て敗北す。爰に西念発向すべきの由厳命を奉る。件
  の御教書、去る月五日西念が住所上野の国磯部郷に到着す。仍って時刻を廻らさず鞭
  を揚げ、三箇日の中に鳥坂口に馳せ下る。則ち使者を資盛に遣わし、御教書の趣を相
  触るの間、早く城辺に来るべきの由を答う。茲に因って勇士等を発す。時に越後・佐
  渡・信濃三箇国の輩、鋒を争い競い集まる。西念が子息小三郎兵衛の尉盛季先登せん
  と欲するの処、信濃の国の住人海野の小太郎幸氏、盛季が右方を抜き進出せんと欲す。
  爰に盛季郎従幸氏が騎轡を取る。この間盛季思いの如く先登に進み一箭を射る。その
  後幸氏また進み寄せ相戦うの間疵を被る。資盛已下の賊徒、矢石を飛ばすこと雨脚に
  異ならず。合戦の間彼の両時に及び盛季疵を被る。郎従等数輩、或いは命を殞し或い
  は疵を被る。また資盛姨母の坂額御前と号するもの有り。女性の身たりと雖も、百発
  百中の芸殆ど父兄に越ゆるなり。人挙て奇特を謂う。この合戦の日殊に兵略を施す。
  童形の如く上髪せしめ、腹巻を着し矢倉の上に居て、襲い到るの輩を射る。中たるの
  者死なずと云うこと莫し。西念郎従また多く以てこれが為に誅せらる。時に信濃の国
  の住人藤澤の次郎清親城の後山を廻り、高所より能くこれを窺い見て矢を発つ。その
  矢件の女の左右の股を射通す。即ち倒れるの処清親郎等生虜る。疵平癒に及ばばこれ
  を召し進すべし。姨母疵を被るの後資盛敗北す。出羽城の介繁成(資盛曩祖)野干の
  手より相伝する所の刀、今度合戦の刻に紛失すと。
 

5月17日 丙寅
  佐々木左衛門の尉定綱が飛脚参着す。申して云く、柏原の彌三郎、去年三尾谷の十郎
  が為に襲われるの刻、逃亡するの後行方を知らざるの処、廣綱弟四郎信綱件の在所を
  伺い得て、今月九日にこれを誅戮すと。