1201年 (正治3年、2月13日改元 建仁元年 辛酉)
 
 

6月1日 己卯 陰
  寅の刻、左金吾江島明神に御参り。この次いでを以て相模河辺を逍遙せしめ給う。当
  国の御家人等群参し、狩猟・射的の勝遊有り。今夜大磯に到り止宿せしめ給う。遊君
  等を召し歌曲を盡くさる。
 

6月2日 庚辰 晴陰、常に小雨灑ぐ
  今朝金吾大磯宿を出でしめ給う処、遊君愛壽俄に以て落餝す。これ去る夜数輩の中、
  一身恩喚に漏れるに依ってなりと。その顔色太だ花麗、傍輩等これを妬み、名字を隠
  密するの間、その召し無きの処、忽ち出家を遂ぐ。金吾殊に御歎息有り。仍って数多
  の纏頭を賜う。これを領納せず、高麗寺の仏陀に施入し、即ち逐電すと。戌の刻に金
  吾鎌倉に御帰着。
 

6月28日 丙午
  藤澤の次郎清親囚人資盛姨母(坂額と号する女房)を相具し参上す。その疵未だ平減
  に及ばずと雖も、相構えて扶け参ると。左金吾その躰を覧るべきの由仰せらる。仍っ
  て清親相具し御所に参る。左金吾簾中よりこれを覧玉う。御家人等群参し市を成す。
  重忠・朝政・義盛・能員・義村以下侍所に候ず。その座の中央を通り簾下に進み居る。
  この間聊かも諂う気無し。凡そ勇力の丈夫に比すると雖も、敢えて対揚を恥ずべから
  ざるの粧いなり。但し顔色に於いては、殆ど陵薗妾に配すべしと。
 

6月29日 丁未
  阿佐利の與一(義遠)主女房を以て申して云く、越州の囚女すでに配所を定めらるれ
  ば、態と申し預からんと欲すと。金吾御返事に云く、これ無双の朝敵たり。殆ど望み
  申すの條所存有りと。阿佐利重ねて申して云く、全く殊なる所存無し。ただ同心の契
  約を成し、壮力の男子を生み、朝廷を護り武家を扶け奉らんが為なりと。時に金吾、
  件の女の面貌宜しきに似たりと雖も、心の武を思わば、誰か愛念を遺さんや。而るに
  義遠が所存、すでに人間の好む所に非ざる由、頻りに嘲哢せしめ給う。而るに遂に以
  て免し給う。阿佐利これを得て甲斐の国に下向すと。