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2006 USA 117 Min. 劇映画
出演者
Gerard Butler
(Leonidas - スパルタの2人の王のうちの1人)
Eli Snyder
(Leonidas、少年時代)
Tyler Max Neitzel
(Leonidas、15歳)
Tim Connolly
(レオニダスの父親)
Marie-Julie Rivest
(レオニダスの母親)
Lena Headey
(Gorgo - レオニダスの妻、女王、以前の王の娘)
Dominic West (Theron)
David Wenham (Dilios)
Vincent Regan (隊長)
Michael Fassbender (Stelios)
Tom Wisdom (Astinos)
Andrew Pleavin (Daxos)
Andrew Tiernan (Ephialtes)
Rodrigo Santoro (Xerxes - ペルシャ王)
Giovani Cimmino (Pleistarchos)
Kelly Craig (巫女)
Greg Kramer (役人)
Alex Ivanovici (役人)
見た時期:2007年4月
ここ暫く懸賞にあまり応募せず、あまり当たらずだったのですが、最近になって急にまたそういう招待券が続々入るようになってしまいました。相手のあることで、私1人の意思で決まるわけではないのですが、当たれば何でも喜んで出かけて行きます。
そういう中で珍しくちょっと外れだったなあと思える作品に当たってしまったことがあります。すでに券が当たっていたので、それ以上は期待していなかったある日、もう1つ当てて来た人がいて、結局それにも参加ということになり、同じ日に連ちゃん。
連ちゃんになる上に、1つ目の券は日時、タイトルが決まっていたので、もう1つの券は後ろへ。最初の券は300という作品でした。
300は好きになれなかったのですが、この監督はその前にドーン・オブ・ザ・デッドを撮っていて、そちらは愉快でした。エンターテイメントも行ける人です。
イランとの関係が特別ギクシャクしている今こういう映画が出て来たことに 驚きますが、2年も前に準備を始めたとかで、アメリカとイランとの対立が本格化する前のことです。ベルリンにはイラン人も一定の数住んでいます。亡命している人もいるかも知れませんし、現政権の側の人もいるのかも知れませんが、市内で特に揉め事があったとも聞いていません。10年ほど前にあるスポーツを習いに行ったら、同じクラスに家族持ちのイラン人女性がたくさんいました。イスラム教の人にしてはかなり自由な生活をしています。トルコ女性は実質的に自由な生活をしていても、スカーフをしている人が結構いるのですが、私が知り合ったイラン人女性は1人もスカーフをしていませんでした。300を見ながら、彼女たちがこの映画を見たらあまり喜ばないだろうなあと思いました。相手がペルシャであってもよその国であっても描き方がスパルタ人贔屓で、ちょっと片手落ちに思えます。
ざっと説明すると、ギリシャ、スパルタで紀元前480年に起きたペルシャとの戦争(史実)をアメリカで漫画にした人がいて、それが有名なマーベル・コミックから出版されていたのだそうです。私はあまり漫画を専門にしていないのでマーベル・コミックが有名な会社だ、そこから有名な作品も出ているというのは知っていましたが、300はこの会社の作品としては知名度が低いのではないかと思います。(漫画のリストを作りました。参考にして下さい。)
スパルタ人というのはギリシャ北部の出身で、先住民を奴隷にし、大きな国を築いていました。奴隷にした人たちは農民として働き、行動の自由は無し。よその国へ出て行くことも許されませんでした。征服した側のスパルタ人は全部で5万人ほど、征服された人たちはその3-5倍程度。スパルタ人の中で完全な市民として認められるのは成人男子のみ。その数約8000から1万人。その家族や半分自由な人たちがいて、それが約3-5万人・・・とここでいくらか数字の矛盾が出ます。いずれにしろその程度の規模のスパルタ人が15万から25万人を支配するのではちょっと無理があったようです。
ある辞書によると奴隷側に抵抗運動が起きそうになると夜に処刑部隊が現われてそういう人たちを消してしまったとのことで、あまり楽しい国ではなかったという印象を受けます。足腰の立つ成人男子全員が今で言えば特殊部隊とかSWATのような訓練を受けていたようなのです。
政治制度はこういう枠の中でしっかりしていたようで、兵役を終えた年長者と合併した2つの国の国王の30人で政治方針を話し合ったそうです。兵役が現代の定年と同じぐらいの年齢まで続き、議員は終身職。頭の固い人ばかりになるのを防ぐために、現代なら政治家として立候補できる年齢ぐらいの若い男子を数人監査官として置き、バランスを取っていた様子です。この辺は受け売りですが、取り敢えずは高度な政治制度を有していたと言えます。
その様子は映画にも出て来ます。映画の主人公レオニダスというのは実在の人物で、2国の国王のうちの1人。
辞書にもあり、映画にも出て来るのですが、弱者は淘汰する主義で、まだ幼い子供に難しい課題を与え、生き延びた者だけが次の過程に進むという方式だったようです。共同生活、人殺しの訓練、盗み、サバイバルの方法などを身につけ、兵士として育って行きます。
これを見ながらふと頭に浮かんだのは、立派な両親がいて、確固たる政治制度に守られた国の市民のスパルタ人少年と、マフィアに引き取られて人殺しボクシングを幼児の時から習わされたカンボジア人のエディソン・チャン(狗咬狗)とどこが違うんだろうということ。何だかどちらも殺伐としています。
狗咬狗では若い女性との出会いで人を愛する心を知ったチャンという風に話が進み、「ああ、これまでは動物のように生きていた青年が人の心を知ったのだなあ、自分の家族を作りたくなったのだな」というコンセプトに納得するのですが、300では国のシステムとして幼児の時から親から引き離され、特に母親とのコンタクトはそれ以降希薄になり、同世代の大勢の子供と共同生活をするため実の父親と過ごす時間も少ないのに、どうしてあの映画のように親子の愛情ができるんだろうなどとツッコミも入ってしまいました。何しろこの国では結婚しても生活は兵舎で、妻との同居というのはありません。
480年に起きた戦争は映画によると100万の敵軍を300人の男たちで防ごうとしたことになっていますが、これは何桁かさばを読んでいます。少ない見積もりの場合は敵は7000人、多い場合で30万人だった様子。スパルタに有利な方を取っても1人で20人以上倒さなければならなかったことは確かなようです。最初は自分たちと一緒に戦ってくれる兵士が一緒にいて、それを合わせると数千人。しかし彼らを先に逃がして、スパルタ人300人が敵を食い止めるという作戦に変更になってからは、本当に300人で大勢を相手にしたようです。
自決することに意味があったのではなく、ギリシャ側全体を有利にするための時間稼ぎ。作戦も上手で、地理的に漏斗のようになった、相手がどうしても通らなければ行けない狭い場所で待ち伏せして討ち取るという方法です。しかし裏切り者がいて、情報が敵に伝わり、全員死亡という結果になります。この辺り映画でも史実にぴったり合わせています。
映画に出て来ないのはスパルタの没落。勝ち組のスパルタは質素な生活を特色としていたのですが、ある時戦争に勝ちそのため贅沢品が国に流れ込み、結局それが国を滅ぼすことになりました。新型の武器でも、特殊部隊訓練を受けた兵士でも、知恵のある作戦でもなく、最強の軍事国家スパルタを滅ぼしたのは繁栄した経済だったのです。何とも皮肉な話ですが、現代の私たちにも大いに参考になる話です。そこはなぜか映画には出て来ませんでした。
この映画を機にスパルタという国をちょっとチェックしてみたのですが、意外な結果に終わりました。スパルタ教育というのが果たして良いことなのかに大きな疑問が生じたのです。日本で言われているのは規律の正しさを学ぶための厳しい教育といことですが、意外や意外こんな内容でした。奴隷ではなく一般市民に適応される法律です。
といった具合で、賛成するかよく考えてみないとだめだなあと思います。特に驚いたのは盗みを奨励している点。贅沢を禁じるのは国民全員が同じぐらい質素だったら、問題はないでしょう。皆が贅沢か皆が質素だったら問題というのは起きないと思います。差が出ると問題が起きるでしょう。
ギリシャと聞くとすぐ《豊かな文化》という風に考えが飛びますが、なぜかスパルタには上に書いたような制度以外は何も残っていません。元から生まれなかったのか、後世に引き継がれなかったのか分かりませんが、他のギリシャ国家が何も書き残していないのです。それで何も生じなかったのかという意見に傾いています。軍事教練に時間を取られ、文学、美術などに割く時間がなかった、読み書きは奨励されなかったので、文章をまとめる能力を持った人が出なかったのかなどと勝手に考えているところです。
歴史を見るとペルシャばかりでなく定期的に近隣のギリシャ人国家ともいざこざが起きており、あまり人に好かれる人たちではなかったようです。一頃は5桁、4桁の市民数も最後には700人に落ち、以前は全市民が土地所有者だったのが最後は100人。そして最後の王が暗殺されます。結局ローマの支配下に入ってしまうのですが、皮肉なことにローマ帝国からは自治権が保障されます。意外なことにその後もスパルタは何とか生き延び、1834年に再建。現在は人口約15000人。とは言っても現代のギリシャ人、ギリシャ語は全体が古代のギリシャとは違う構成になっているので、短絡に当時のスパルタの末裔だとは受け取らない方がいいようです。
映画は見ていてあまり感心しませんでした。どうやら同じ意見が館全体を支配していたようで、一流映画館の1番大きいホール、ベルリン映画祭も開催されるホールで、大半が若い人。普段なら黙って見ていて、おもしろい所だけで声を上げるのですが、この日は最初から終わりまでだらだらと色々な場所で話し声が聞こえ、ポップコーンをかじる音が聞こえ、さらに誰も「静かにしろ!」と文句を言いませんでした。私も「集中したいのに邪魔だ」という気分にならず、次の映画のことを考えていました。一応どの映画でも気合を入れて見るので、こんな事は私には珍しいです。
結局この映画、何が行けなかったんだろうと考えてみるに、ベルリンは多民族国家の首都。映画でたまたまいい役でなかったペルシャ人だけでなく、トルコ系の人も大勢います。歴史上長い時間が流れていますが、現在ではペルシャ人もトルコ人もイスラム教です。イスラム教はスパルタの時代よりずっと後に生まれた宗教ですが、映画の中で描かれている様子を見てトルコ系の人も喜ぶことはないのではと感じました。
子供を早い時期から家族から引き離してというのはイスラム教でなくてもあまり好かれません。私もただでさえ家族関係が緩んでしまい、若い世代がさまよっているのに、寄宿舎、団体生活を良しとする国家となるとちょっと引いてしまいます。その辺はトルコ系の人だけでなく、キリスト教のドイツ市民でも同じ感覚なのではと思います。そして殺しの技術を教える訓練シーン。兵役のあるドイツなら人殺しの技術もいくらか教えざるを得ないでしょうが、判断力のある成人になってからという点は国中のコンセンサス。積極的に相手を殺すという方針はドイツは取っていません。軍隊ですから攻撃を受けた時に対抗することは必要とされているのでしょうが、前回の派兵でも「行け行け!」ではなく、「行かずに済めば・・・」というスタンスでした。
ところが300では敵を攻撃するシーンで首が飛んだり、槍が刺さるところ、奈落に突き落とすところなどはわざわざストップモーションにしてあり嫌が上にも強調されています。血が飛び散るシーンをゆっくりご堪能下さいという姿勢です。そういうシーンで誰も歓声も上げず、観客はずっとお喋りを続け、ポップコーンをかじり続けていました。観客の反応を見る限りドイツの若者はまともな人たちだと言えます。
何にでも長所があるものです。私は歴史はサボって、試験に必要な事を丸暗記。試験直前までに頭にパンパンに詰め込んで、答案用紙を貰ったらざーっと書き込んで、それを見ながら解答し、最後に消しゴムで消してしまって、知識は消しゴムと共に去りぬでした。ですからスパルタに関しては古いギリシャの国家だという以外何も覚えていませんでした。多分ペルシャ戦争は当時丸暗記したのでしょうが、消しゴムで消えてしまったのだと思います。
300を見たおかげで、あれ、何だっけと思いちょっと調べてみる気になりました。「ええ!?あんな事していたの?マジ?」と思ったのがきっかけです。そういう意味で、新しく覚え直すことができました。
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