《有難い 程良い言葉 温もりが》

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 インターネットの発達によってもたらされた情報社会では,情報の受発信がだれでも容易に実行できるようになりました。表現の自由が手に入りましたが,一方で望まない副作用も招き寄せています。フェイクニュースやヘイトスピーチの混在,誹謗中傷の蔓延,詐欺の拡大など,新たな問題が身近に起こっています。その対応としてネット空間を作り出して利用に供している事業者に,誹謗中傷情報の削除要請への対応が義務づけられています。しかし,情報の選別が必至になると,根本的な懸念に向き合うことになります。それは,表現の自由への環境からの制限という問題なのです。
 ところで,表現も含めて,自由には責任が伴うはずです。自らの自由な振る舞いが他者に被害をもたらす結果になってしまったら,その回復に向けた責任を負わなければなりません。そこで事前に被害発生を避けるためには,自由にも程があると認識する用心が求められます。自由というアクセルは,程があると意識して徐行し,自らブレーキをかけて制限ができてこそ,意味のある価値になります。アクセルだけでは暴走を招くだけです。特にネット表現では発信したらブレーキは無く消去もできないので,発信前に一時停止して受信結果を推察することが勧められています。
 表現の自由をその内容について考えると,文字通り自らの内なる想いや考えを表に現すことは勝手にしていいのです。しかし,他者に関する内容の表現を押しつける自由はありません。他者のことは他者本人しか表現しようがないからです。言い換えると,「私は・・・である」というアイメッセージの自由はあります。しかし,「あなたは・・・である」というユーメッセージは相手の自由への越権となります。相手への要求や指示がハラスメントになる表現は,理不尽な表現と見なされます。
 もう一つの抑えておくべきポイントは,表現に責任を持つためには,表現者の身元を明示しなくてはなりません。匿名による表現は基本的には責任回避の表明と見なされて,無視されることになります。人は何故表現をしようとするのかを考えると,自分の内なる想いを分かって欲しいという欲求を満たしたい,一方で相手の思いを共有したいと願って受け止めてくれる他者が存在できるからです。表現とは私とあなたという関係である私たち(We)意識の構築を可能にしてくれます。その温かな連帯のためには,お互いの存在をまるごと確認できる十分な表現であることが条件になります。

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(2024年08月11日:No.1272)