《有難い 言葉の弱さ 弁えて》

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 芸能界やオリンピックの世界がSNSの世界につながっていることで,誹謗中傷という副作用が起こっているようです。言ってはいけないことやしてはいけないことをしてしまった人への誹謗中傷が蔓延っているということで,関係者からも排除までされる事態に至り,ちょっとした議論になっています。
 SNSの世界で,あってはいけないことへの正義の非難は以前から問題視されていました。様々な論調がなされています。端緒は誹謗される当人が言わない方がいいことを何の配慮もなくネット上で表現してしまったことです。その表現を受け取った人が普通とは違って逸れた内容であるという単なる違いとは受け取らずに,間違いであると判断することで,非難していい,非難すべきであるとして,責め立てて良い,だから自分が非難するという流れが起こっていると解釈されています。
 SNSというシステムを提供している事業者には,表現の世界の清廉さを守る責任があります。食品業界で病原菌を流布させることのないように食品の衛生を厳守する責任と同じです。それなりの認可を前提として表現の中に潜む誹謗中傷菌を除去して貰うことが必要です。もちろん,SNSを利用する者に対しても,他者に対する侵害となる恐れのある表現は発出しないという矜持が求められています。社会人としての新しいモラルです。
 社会の変化は人の思慮に変更を求めます。時代とともに,人の考え方や感じ方は変わらざるを得ません。世界は自分中心に動いているという天動説の時代では生活に密接していた星の運動について,その動きが迷っているとしか見えない星があり,惑星と名付けられました。しかし,自分が動いている地動説の時代に変化して,地球の動きは整然と動いていることになりました。人の思考に変更が必要だったのです。産業革命が起こると,家畜との共同から仕事の形が変化することになり,機械の力を馬力という形で翻訳しながら,意識の転化をしてきました。
 今の情報革新の時代では,自分と世界の関係を再構築するために,言葉という道具について新たに転化することが必至になっています。言葉の不完全さをきちんと理解する必要が出てきたのです。言葉は発信する側に何かしらの意図があって表現されます。ところが受信する側にも何かしらの意図があります。お互いの言葉にそれぞれの意図が絡まりますが,同じであれば思い通りに通じます。ところが,意図がずれていると,そんな積もりではなかったという後悔をする事態が起こります。
 言葉には常に前提や背景となる状況が付随して意味を持つという弱点があります。言葉を交わすときに誤解が生じる,曲解を誘ってしまうのは,お互いの持ち合わせている前提や背景が異なるからです。普通には,その背景などの違いを想定して,予めできるだけきちんと補足説明を施します。お互いに対話を通して確認するということも行われます。
 SNSという世界の現状では,先ずは言葉数が少なくて背景などの説明がされていないこと,言葉を交わすという手間が省かれ,勝手に話して勝手に聞くという確認不足であること,さらには,双方の言葉の伝達を円滑にする機能が施されていないことが意識されるべきです。この最後の点については,システム運用する者に課せられる緊急の課題です。
 「あれ,それ」で通じる世界があります。夫婦や親子といった家族,身近に生活がつながっているご近所や仕事の同僚,普段から気心の知れた関係の中で暮らしています。そこでは背景を共有していることから,言葉が直接にお互いの思いを纏って通じていきます。その表現スタイルはごく特別なものなのです。この特別な場での井戸端会議風のつもりで,お互いが見ず知らずのSNS世界で言葉を発信していると,傍迷惑な発言になることは現状が示しています。言葉のTPOを新しく弁えることです。面と向かって言えることと言えないことがあるなら,言えないことはSNSでは言わないことが賢明です。
 情報社会になる以前は,いわゆる生活に関わる身近な直接社会と,単に見たり聞いたりするだけの距離感がある間接社会の間は,意識として切り離されていました。いわゆる内の世界と外の世界として明確な区別ができており,外の世界では他所向けの改まった言葉遣いが意識できていました。場所柄を弁える礼儀として実践できていました。井戸端では個人的なマイナス感情表現をしても,その場で閉じているためにその毒気は大して拡散はしません。しかし,大通りに出て叫べば,社会人としては問題発言ということになるのです。
 今では,その外の世界が手元に直接的につながってしまい,意識の距離感が消えてしまい,内外のけじめがつかなくなってしまいました。その一体感が言葉の曖昧さをもろに機能不全としてもたらしてきたのです。発信者が伝達力を見極めていない言葉は危ないのです。なぜなら,受信者を直接に見ていない表明だからです。

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(2024年08月25日:No.1274)