《有難い 無味や無臭が そばにあり》

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 すぐ目の前にある田んぼに稲が育ち,色づいてきた穂が垂れ下がっています。やがて稲刈りが行われることでしょう。稲の生きる姿はタネとして次世代に受け継がれて行きます。但し,稲の思惑に反して,人の思惑によってお米という形でその命を頂かれてしまいます。それでも稲は1年草として,繰り返し生き続けることで繁殖し続けるつもりです。
 そばに生えている庭木は,勝手気ままに枝を伸ばし葉を茂らしながら育っています。育ちをいつまで続けるかという目安など無く,ただ単純にひたすら育ち続けていくつもりのようです。一方で,生きている細胞には寿命があるようで,新陳代謝の機能に限界があることから,やがて朽ちていくことになります。木もまたタネを生み出して蔓延っていくつもりです。
 動物も含めて生物は自らはひたすら生き続けていきながら,種として繁殖し続ける方向にひたすらに進んでいくことが定めのようです。生きることに「もっと」という衝動が働いていると,際限が無くなり,無理をするようになります。この辺でいいという満足のブレーキは無いのでしょうか。種の多様性があれば,限られた環境の中では衝突というブレーキが作用しある面で抑制されますが,その過程を経て勝者は次の衝突まで「もっと」の衝動が続きます。
 人間社会も人はそれぞれもっと生きるという衝動で生きています。欲望という衝動です。人同士では競争が発生します。競争世界を勝ち抜くことが生きることになります。その顛末は,平家物語に記されています。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」
 過ぎるという感覚は自制の契機であるはずです。何事にも程があるという自制です。しかし,この過ぎるが快感となっていることがあります。面白すぎるという表現が抑制ではなく推奨されるようになっています。美味しすぎる,上手すぎる,美しすぎる,など枚挙に暇がありません。
 生きる上で必須の食について,美味しさを求める食欲が「もっと」で暴走しています。美味しいよりももっと美味しく,美味しすぎるへ向かっています。美味しさとは身体によいものを選ぶ出す機能であったはずですが,美味しさを快感にすり替えてしまいました。そこには暴走が待ち構えています。そこで古来から人は美味しさの暴走を抑制するために,味覚を振り出しに戻すために味の薄い白米を食べていました。味を重ねるのではなく,味を振り出しの無味に維持することで,食欲の暴走を回避していたのです。

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(2024年09月01日:No.1275)