《楽しみは あれこれ詮索 迷い込み》

Welcome to Bear's Home-Page
ホームページに戻ります

家庭の窓にリンクします! 家庭の窓


 前号で,日々を過不足なく普通に生きていくと,年明けの願いを書いておきました。普通に生きていると普通の人になるのでしょう。普通の人とはその様子が見えません。私たちの理解は,基本的に分けることに依る定義づけです。例えば,背の高い人,低い人,どちらでもない普通の人となります。良い人,悪い人,どちらでもない人が普通の人です。暮らしで言えば,豊かな暮らし,貧しい暮らし,どちらでもない普通の暮らしとなります。
 普通じゃない,という表現があります。多くの場合,それは悪いという意味合いで,人については差別的な評価になります。ときには,逆の秀でて良いという意味を持つこともあります。
 家庭の人間関係のような場合には,「あなたは普通じゃない」と言われると,悪いイメージを持たれていることになります。では「あなたは普通の人」と言われたら,それは退屈な人ということです。面白みがないという普通なのです。

 ところで,他者を普通じゃないと判断しているとき,自分を普通と思って,自分と違うから普通じゃないと言ってはいないでしょうか。自分と比べて差異を見分けているのです。違いを感知しているのは誰でもない自分しかいないのです。
 さらに普通という意識は,違いだけではなく,何らかの価値評価を纏うこともあります。例えば,正邪の判定です。法的な禁止事項を守っているのが正しくて,犯しているのが邪とすることです。この場合,実は法の遵守は当たり前であり普通となり,格別に正しく良いことということにはなりません。有るか無いかという1か0かの二者択一評価軸に縮小して判断するから,普通は「あるべき正しく良い状況」に格上げされていきます。
 自分は普通であり,普通はあるべき状況であると思い込むと,自分と違う人は「あるべきではない状況」にある人と判断してしまい,正しさに戻すために糾弾する行動をすべきという決断に至ってしまいます。さまざまなハラスメントをしでかす人が増えてきた背景には,自らの普通感覚を整備点検し忘れている人が増えていることがうかがえます。
 普通であるという状況は,良くもなく悪くもない,つまり見えない状況なのです。どうすれば,普通でいられるのでしょうか?

ご意見・ご感想はこちらへ

(2026年01月18日:No.1347)