《楽しみは 地味な動きを 産む言葉》

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 車を運転していて左折をする際に,横断歩道を確認し,歩行者が通る間,右足はブレーキを踏んでいます。その間,歩行者の様子を見るとはなしに見ています。辺りに目配せしながら安全を確認しているかなと思っても,そんな気配は全くありません。うつむいて手元のスマホを見ながら,歩いています。安全配慮は車の方に任せて,歩行者は無防備に足任せのようです。
 ながらスマホという行為が運転者に被さってくると,交通事故での死亡割合は,他の要因に比べて高くなっているという報道がありました。ヒマさえあれば,という状況説明付きで,スマホを見ているという指摘が聞こえてくることもありますが,それは珍しくことさら言い立てる現象ではなくなって,世間では常態なのです。ただ,そうではない身では,不思議に思うとともに,少しばかり心配してしまいます。
 スマホは基本的に情報を受発信する機器です。ただ,スマホを見ているという状況では,受信機能が働いているはずです。気になることは,歩いている間でも確認すべき大事な情報を受け取っているのかということです。特に必要というわけではなくても,何か面白いネタがもたらされていないか,そのチャンスを逃したくないということで,目を離せなくなってはいないのでしょうか? それとも,ただの暇つぶしのつもりでしょうか?
 人の情報の処理能力には量的,速度において限度があります。また,その時々に必要な情報があります。例えば,運転中には周りの情報を掴んでいなくてはならないので,スマホの今は無用の情報を見る暇はないはずです。歩行中でも,足下や目の先の安全確認など,必要な情報の取得があります。目を背けることは,危険を招くようなものです。
 あっという間に情報社会になって,その流れの中で誰もがスマホを使えるようになって,膨大な情報がすぐ傍を流れています。物見高いのが人の常であるなら,ついのぞいてしまうのでしょうが,それも程ほどにする良識が働いてほしいものです。ほとんどの情報が人様に関わるものであり,見せたがりやの情報も紛れ込んでいます。知らなくても一向に困らない,知ったからといって何の役にも立たない,何のつながりもないような情報に費やす時間がもったいないのです。
 このような情報過多な現実に,少しばかり心配をしてしまいます。世の中はいろいろな活動によって維持されています。人に置き換えると,手足の実践が生きていることです。ところが,今人は知る活動が主になって,動く活動が疎かになっています。いろんなことを知っているところで終わっています。ああでもないこうでもない,あるべきことを知って訴えている情報の流れだけで,必要な実践は誰かに任せている状況です。情報では生きられないことを忘れさせてしまうほどに溢れた情報社会なのです。日々の暮らしにつながる情報を見逃さないようにしたいものです。

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(2026年03月15日:No.1355)