1202年 (建仁2年 壬戌)
 
 

6月1日 甲戌 晴
  遠州伊豆の国北條に下向せしめ給う。夢想の告げ有るに依って、亡息北條の三郎宗時
  が菩提を訪い給わんが為なり。彼の墳墓堂は当国桑原郷に在るが故なり。
 

6月25日 戊戌 陰
  尼御台所左金吾の御所に入御す。これ御鞠会連日の事たりと雖も、未だ行景以下上足
  を覧玉わざるに依ってなり。この会適々千載一遇たるべきの間、上下入興す。而るに
  夕立降り遺恨の処、即ち晴に属す。然れども樹下滂沱、尤もその煩いを為す。爰に壱
  岐判官知康、直垂帷等を解きこの水を取る。時の逸興なり。人これを感ず。申の刻に
  御鞠を始めらる。左金吾・伯耆少将・北條の五郎・六位の進・紀内・細野兵衛の尉・
  稲木の五郎・富部の五郎・比企の彌四郎・大輔房源性・加賀房義印、各々相替り立つ。
  員三百六十なり。昏黒に臨み事終わり、東北の御所に於いて勧盃有り。数巡に及び舞
  女微妙を召し舞曲有り。知康鼓役に候ず。酒客皆酣なり。知康御前に進み、銚子を取
  り酒を北條の五郎時連に勧む。この間酒狂の余り、知康云く、北條の五郎は、容儀と
  云い進退と云い、抜群と謂うべき処、実名太だ下劣なり。時連の連字は銭貨を貫く儀
  か。貫之歌仙たるに依って、その芳躅を訪うか。旁々然るべからず。早く改名すべき
  の由、将軍直にこれを仰せらるべしと。全く連字を改むべきの旨、北條これを諾し申
  さる。
 

6月26日 己亥 陰
  尼御台所還らしめ給う。昨日の儀、興有るに似たりと雖も、知康独歩の思いを成す。
  太だ奇怪なり。伊豫の守義仲法住寺殿を襲い合戦を致すに依って、卿相雲客恥辱に及
  ぶ。その根元は知康が凶害より起こるなり。また義経朝臣に同意し、関東を亡ぼさん
  と欲するの間、先人殊に憤らしめ給う。解官追放せらるべきの旨、奏聞を経られをは
  んぬ。而るに今彼の先非を忘れ昵近を免さる。亡者の御本意に背くの由御気色有りと。