1204年 (建仁4年、2月20日改元 元久元年 甲子)
 
 

9月1日 丙寅
  近習の輩十余人任官の事これを挙げ申さると。
 

9月2日 丁卯
  将軍家御馬二疋(河原毛・栗毛駮)を以て伊勢の内外両宮に奉らる。新藤次俊長・和
  泉の掾景家等これを相具す。今朝進発すと。


9月13日 戊寅
  法華堂御仏事をはんぬ。秉燭の程、盗人別当大学坊に入り、先考の御遺物重宝等を盗
  み取る。即ち馳せ申すの間、当番衆等に仰せ、犯人を明め尋らると雖も、跡を晦まし
  行方知らずと。
 

9月15日 甲戌 霽
  将軍家去る夜白地に相州御亭に入御す。即ち還御有らんと欲する処、亭主抑留し奉り
  給う。今夜月蝕たるに依って、意ならずまた御逗留。亭主殊に入興し給う。その間行
  光座に候ず。申して云く、京極太閤の御時、白河院宇治に御幸し、還御有らんと擬す。
  余興盡きざるの間、猶御逗留申さる。而るに明日還御有らば、宇治より洛陽北に当た
  り、方忌の憚り有るべしと。殿下御遺恨甚だしきの処、行家朝臣喜撰法師の詠歌を引
  き、今宇治都の南に非ず、巽たるの由これを申す。茲に依ってその日還御を止めらる
  と。今夕の月蝕、尤も天の然らしむ所なりと。相州殊に御感すと。

**[十訓抄]
  京極大殿(頼通公息、師實)の御時、白河院宇治に御幸有ける。余興盡ざるによりて、
  今一日御逗留有べきよしを申さるるを、明日還御あらば、花洛は宇治より北にあたり
  て、日ふさがりの憚有べし。このためいかがといふに、殿下遺恨ふかき所に、行家朝
  臣(讃岐の守家経が子)申ていはく、宇治は都の南にあらず。喜撰が歌に云く、
    わが庵は都のたつみしかぞすむよをうじ山と人はいふなり
  とよめり、しかれば何のはばかりあらんと申されけり。この旨を奏聞ありければ、そ
  の日還御のびにけり。