1204年 (建仁4年、2月20日改元 元久元年 甲子)
 
 

10月6日 乙未
  亥の刻大地震。
 

10月10日 己亥
  風烈し。雨頻りに降る。申の刻雷鳴両三声。
 

10月14日 癸卯
  坊門前の大納言(信清卿)息女、将軍家御台所として下向せしめ給うべきに依って、
  御迎えの為人々上洛す。所謂左馬権の助・結城の七郎・千葉平次兵衛の尉・畠山の六
  郎・筑後の六郎・和田の三郎・土肥の先次郎・葛西の十郎・佐原の太郎・多々良の四
  郎・長井の太郎・宇佐美の三郎・佐々木の小三郎・南條の平次・安西の四郎等なり。
 

10月17日 丙午
  大隅の国正八幡宮寺訴え申す事沙汰を経らる。これ故右幕下の御時、掃部の頭入道寂
  忍正宮地頭たるの処、宮寺子細を申すに依って、その儀を停止せられをはんぬ。その
  後また三箇所三人の地頭を補せらるるの間、造宮の功成り難きの由と。仍って今日、
  彼の地頭職等を止める所なり。帖作郷地頭肥後坊良西、荒田庄地頭山北の六郎種頼、
  万得名地頭馬部入道浄賢と。廣元朝臣これを奉行す。
 

10月18日 丁未
  諸国荘園・郷・保の地頭等、事を勲功の賞に寄せ、非例を構え所務を濫妨するの由、
  国司・領家の訴訟出来するの間、今日その沙汰有り。名田と云い所職と云い、本下司
  の跡に任せ沙汰を致すべし。御旨に背かば、改職すべきの旨仰せ下さると。仲業・清
  定奉行すと。