1206年 (元久3年、4月27日改元 建永元年 丙寅)
 
 

7月1日 庚辰
  伊勢平氏等蜂起の時、朝政朝臣大将軍として、近国の御家人を相催し発向するの処、
  不参の輩の所領等、これを召し放たると雖も、面々子細を申し披くに依って、五條蔵
  人長雅已下の所領返し付けらると。
 

7月3日 壬午
  三位法橋定暁鶴岡別当に補す。今日始めて神拝を遂ぐ。その後御所に参りこれを賀し
  申す。廣元朝臣申次たり。
 

7月5日 朝天晴 [明月記]
  夜に入り、使者奔り来たりて云く、関東の使い還向す。燈火に於いて披見するの処、
  その状すでに許されずと。名謁り訖わり退出す。
 

7月6日 天晴 [明月記]
  巳の時前の亞相亭(四條壬生)に向かう。関東の返事これを付す。相逢われこれを披
  見す。子細を相尋ね、追って成敗すべきの由申せらる。