1210年 (承元四年 庚午)
 
 

5月6日 癸巳
  将軍家廣元朝臣の家に渡御す。相州・武州等参られ、和歌以下御興宴に及ぶと。亭主
  三代集を以て贈物と為すと。
 

5月11日 戊戌
  御家人中本所の瀧口に参候すべきの由仰せ下さるるの間、早く勅宣に任せ構参すべき
  の旨、今日御書を下さる。小山・千葉・三浦・秩父・伊東・宇佐美・後藤・葛西以下
  家々十三流これを奉ると。皆これ譜第の寄せ有りと。
 

5月14日 辛丑
  故畠山の次郎重忠が後家の所領等、日来子細有り。内々改易の御沙汰に及ぶと雖も、
  殊なる事有るべからざるの由、今日仰せ出ださると。
 

5月21日 戊申
  将軍家三浦三崎に渡御す。船中に於いて管弦等有り。事毎に興を催す。また小笠懸を
  覧玉う。常盛・胤長・幸氏以下その射手たりと。
 

5月25日 壬子
  陸奥の国平泉保の伽藍等興隆の事、故右幕下の御時、本願基衡等が例に任せ沙汰を致
  すべきの旨、御置文を残さるの処、寺塔年を追って破壊す。供物・燈明以下の事すで
  に断絶するの由、寺僧各々愁い申す。仍って廣元の奉行として、故の如く懈緩の儀有
  るべからざるの趣、今日寺領の地頭の中に仰せらると。
 

5月29日 丙辰
  伊賀の守朝光京都より下着す。上皇去る十七日南山の御幸。御精進屋は七條殿と。