1210年 (承元四年 庚午)
 
 

6月3日 己未
  昨日相模の国丸子河に於いて、土肥・小早河の輩と松田・河村の一族と喧嘩の事有り。
  両方の郎従疵を被る。その後相互に籠城するの由風聞せしむるに依って、これを相鎮
  めんが為、義盛・義村將命を承り行き向かいをはんぬ。今日夜に入り帰参す。件の輩
  納涼逍遙の間頗る雑談に及ぶ。先祖の武功の勝劣を論ずるに就いて、この闘諍有りと
  雖も、御使いの諷諫に応じ、早く和平を成し、與力の衆等退散すと。勇士はその身を
  収め、国家を護り奉るべきの処、近代私の武威を諍い、ややもすれば闘乱を起こす。
  不忠の至り、誡めずんばあるべからざるの由、相州の如きその沙汰有り。向後この儀
  を巧むに於いては、所帯を召し、永く御家人の号を放たるべきの旨、今夜中を以て御
  書を雑色に下さる。土肥・松田等に付すべしと。
 

6月8日 甲子
  尼御台所相模の国の日向薬師堂に詣でしめ給う。武州・源大夫将監等扈従す。夜に入
  り還向し給うと。
 

6月12日 戊辰
  御台所の御方の女房丹後の局京都より参着す。駿河の国宇都山に於いて、群盗等が為、
  所持の財宝並びに坊門殿より整え下さる御装束等、悉く盗み取られるの由これを申す。
 

6月13日 己巳
  駿河の国以西の海道の駅家等夜行番衆を結番す。殊に旅人の警固を致すべし。将又丹
  後の局参向の時盗み取られる所の財宝等、尋ね出すべきの由、今日守護人に仰せらる
  と。
 

6月20日 丙子
  崇徳院御影堂領、地頭職を止めらるべきの由、寺家の訴えに及ぶ。右大将家の御時こ
  の所望有りと雖も、勲功の輩手を空しくすべからざるの旨、御返事を出さるるの上は、
  今更御許容に能わずと。
 

6月27日 癸未
  主計の頭資元朝臣京都より使者を進し、申して云く、兼日の仰せに依って、今日(十
  四日)如法泰山府君を行うと。これ将軍家の御祈祷なり。