1210年 (承元四年 庚午)
 
 

9月9日 甲午 晴
  鶴岡の祭例の如し。相州奉幣の御使いとして参宮し給う。
 

9月11日 丙申
  故足利又太郎忠綱が遺領上野の国散在の名田等、この間これを尋ね出すと称し、安達
  九郎右衛門の尉景盛注進せしむ。仍って新地頭に補せらる。
 

9月13日 丁酉
  幕府に於いて和歌の御会有り。遠江の守・大和の前司・内藤馬の允等座に候すと。
 

9月14日 戊戌
  熊野の鳥居禅尼の知行する地頭職を養子に譲補する事、故将軍の御避状に有るの上は、
  左右に及ばざるの由これを仰せ出さる。廣元朝臣これを奉行す。
 

9月20日 甲辰
  佐々木左衛門の尉廣綱御馬一疋を進す。昨日近江の国より到来す。今日鞠の御壺に於
  いて御覧有り。義村に預けらると。
 

9月25日 己酉
  御本尊五字文殊像更に供養を遂げらる。導師は寿福寺の方丈。この儀五十度行わるべ
  きの由御願有りと。
 

9月30日 乙卯 晴
  戌の刻、西方天市垣第三星の傍らに奇星を見る。光東方に指すこと三尺余り、芒気殊
  に盛ん。長一丈ばかり。この星本文の如きは、彗星たるの由申すの輩有り。

[玉蘂」
  陰陽権の助清光云く、今日戌の刻まで、日入る程より大変有り。説々を説うべからず。
  未だ聞き及ばざる事なり。永万以後未だこの例有らず。彗星西方に出ずるなり。

[愚管抄]
  はヽき星とて、久く絶たる天変の中に第一の変と思ひたる彗星いでて、夜を重ねて久
  く消えざりけり。世の人いかなる事かとをそれたりけり。御祈どもありて、慈圓僧正
  など熾盛光法行いなどしていでずなりたれど、御つヽしみはいかヾにて有り。