1210年 (承元四年 庚午)
 
 

8月7日 壬戌
  鶴岡放生会の舞童十二人幕府に参る。別当これを相具す。則ち鞠の御壺に於いて調楽
  に及ぶと。
 

8月9日 甲子
  神社・仏寺領興行の事思し食し立つ。不慮に顛倒の事有るや否や尋ね注進すべきの旨、
  今日御書を守護人等に下さると。
 

8月12日 丁卯
  信濃の国善光寺の地頭職は、故右大将軍の御時、狼藉を鎮め住侶を安堵せしむべきの
  由、寺家これを望み申すに就いて、便宜の輩に仰せ付けらるべきの旨御沙汰有るの時、
  長沼の五郎宗政申請して云く、吾が身は先世の罪人なり。値遇の結縁を給わらんが為、
  当寺生身の如来の地頭に抽補せられんと欲すてえり。仍って請いに依るの由御下文を
  賜るの後、年記を歴るの処、寺家の為地頭還って煩いを成す。早く停止せらるべきの
  趣、本所の御文到来するの間、彼の職を停止すべきの由、昨日政所の御下文を成され、
  今日御報を申さる。廣元朝臣奉行たりと。
 

8月13日 戊辰
  来十六日鶴岡の馬場の流鏑馬、射手数輩差さるるの中、今日馬場に於いて試みられ、
  堪否に就いて用捨の定め有り。先々はこの義無し。今年例を始めらると。
 

8月15日 庚午 晴
  鶴岡の放生会。将軍家御参宮無し。相州奉幣の御使いとして参らしめ給う。
 

8月16日 辛未 陰
  相州また参宮せしめ給う。将軍家馬場の儀を覧玉わんが為、密々に桟敷に渡御す(女
  房輿を用いらる)。尼御台所並びに御台所同じく桟敷に出でしめ御う。流鏑馬・競馬
  の事終わり、廟庭に於いて相撲の勝負結構の儀有り。相模の太郎が侍岡部の平六と大
  武と召し決せらるの処、岡部雌伏す。次いで廣瀬の四郎と鬼童丸(西浜の住人)と両
  度これを召し決す。遂に勝負無し。人以て壮観と為す。