1211年 (承元5年、3月9日建暦元年 辛未)
 
 

9月7日 [皇帝紀抄]
  山の堂衆四百人ばかり、院の廰の沙汰として北山妙見堂に居せる。これ公家以下の御
  祈りを勤行せしむ為なり。年来勅勘を蒙り所々に隠居す。而るに今これを寛宥せらる。
 

9月8日 天晴 [明月記]
  除目の大略、(中略) 左衛門の督忠信(未だ勅勘を免されず転任す)

[玉蘂]
  また忠信卿左衛門の督に任ず。昨日勅勘を蒙り、今日朝恩を蒙る。これ政の変と。こ
  れを以て察すべきか。
 

9月12日 辛酉 晴
  今暁内藤右馬の允盛時御使いとして上洛す。これ去る月二十五日、坊門中納言(忠信
  卿)遊放の事に依って勅勘の由風聞するが故なり。中将信能朝臣同事に依って勅勘と。
 

9月15日 甲子 晴
  金吾将軍の若君(善哉公)定暁僧都の室に於いて落餝し給う。法名公暁。
 

9月22日 辛未 霽
  禅師公(公暁)登壇受戒の為、定暁僧都を相伴い上洛せしめ給う。将軍家より扈従の
  侍五人を差し遣わさる。これ御猶子たるに依ってなり。
 

9月25日 [玉蘂]
  大納言来たり談りて云く、御勘当すでに免されをはんぬ。悦びを為すこと少なならず。
  昨日御前の召し有り。種々の事を仰せらると。