1211年 (承元5年、3月9日建暦元年 辛未)
 
 

10月6日 通夜今朝猶雨降る [明月記]
  今日聞く。昨日申の刻ばかりに暴風に非ず地震に非ず、内裏瀧口の本所屋顛倒す。雑
  仕女一人その中に在り。揺動の声を聞き奔り出て逐電す。置く所の箭皆打ち損ず。頭
  の中将陰陽寮を召し卜筮せしむと。その屋手を懸けずこれを置くと。これ何故か(そ
  の由を知らず)。此の如き事即日の修造恒例か。
 

10月13日 辛卯
  鴨社の氏人菊大夫長明入道(法名蓮胤)、雅経朝臣の挙に依って、この間下向す。将
  軍家に謁し奉ること度々に及ぶと。而るに今日幕下将軍の御忌日に当たり、彼の法華
  堂に参り念誦読経の間、懐旧の涙頻りに相催す。一首の和歌を堂の柱に註す。
    草も木もなひきし秋の霜消てむなしき苔をはらふ山風
 

10月19日 丁酉 晴
  午の刻、永福寺に於いて宋本一切経五千余巻を供養せらる。曼陀羅供は大阿闍梨葉上
  房律師栄西、讃衆三十口、題名僧百口なり。将軍家(御車)御出で。行村これを奉行
  す。

*宋本[新相模国風土記稿 鶴岡八幡宮下ノ宮輪蔵]
  階下の西方にあり。天正の修理図には薬師堂の南側にあり。堂中に宗板の一切経を蔵
  す。実朝の寄納と云(実朝、朝鮮国に書を贈り、宋朝より贖得たる物と云。略)。按
  ずるに東鏡に、建暦元年十月十九日、永福寺に於いて、宋本一切経五千巻を供養せら
  るとあり。これ当社奉納の経なるべし。
 

10月20日 戊戌
  盛時京都より帰参す。坊門黄門の事すでに勅許す。去る月八日の除目に、勅勘の身た
  りと雖も、左衛門の督に任ぜらると。また今月五日申の刻、暴風に非ず地震に非ず、
  内裏瀧口の本所屋転倒し、置く所の箭皆打ち損ず。雑仕女一人その内に在り。揺動の
  声を聞き奔り出て、僅かに命を全うすと雖も、右の手を打ち損ず。この事に依って、
  貫首陰陽寮を召し卜わしむと。
 

10月22日 庚子 晴
  伊賀の守朝光、永福寺の傍らに一梵宇を建立し、今日供養を遂ぐ。導師は葉上房律師、
  讃衆八人。相州並びに室家・匠作等渡御す。
 

10月23日 朝雨降る [明月記]
  雑人云く、去る夜朱雀門顛倒す。天下の上下競い馳せこれを見る。また云く、去る夜
  行幸還御未だ建礼門に入御せざるの間この事有り。驚奇す。(中略) 夜に入り聞く。
  造門の大工国永以下の番匠等検非違使を給う。本国司猶不日の功を終え仮葺を営出す
  べき由御定をはんぬと。竊にこの條を以て如何に。この門の事、凡そ測量すべからず。
  向後恐るべきものなり。門の相応せざる末代か。魔縁の祟りを成すか。両を知らず。
  通憲大内を営み、罪無くして斬罪に処す。治承に大極殿・朱雀門焼亡す。建久九年に
  及び僅かにこの門を造る。[造]営の国務人(能保卿父子)即時に滅亡す。その事を
  行う家人等三人東夷の地に貶す。元久に及び故殿額を書せしめ給う。御身即ち頓滅す。
  今また造営上棟の後、大風に非ずしてその柱顛倒す。国務大納言万死に一生す。この
  国を辞すの後病癒え平常に復し、すでに任槐の栄えに誇る。今大祀の期を迎え、御禊
  の日に当たり、また還御の時(御輿未だ建礼門を入らず)に指し、この門顛倒す。春
  秋の心の如きは、行事の不恭を為すと雖も、魏の文帝臨幸の日に当たり、離宮の南門
  壊る。その年事有り。恐るべし恐るべし。

[皇帝紀抄]
  天皇大甞會御禊に依って、大炊御門の末に行幸す。還御の御輿待賢門に入御するの間、
  朱雀門頽落し損ず。風雨無し。また朽損に非ず。万人これを異とす。