1211年 (承元5年、3月9日建暦元年 辛未)
 
 

12月1日 己酉
  宗掃部の允孝尚勘発の事、今日免許す。これ中泉庄の内穏田有る由の事、尋ね聞かし
  むべきの旨仰せ付けらるると雖も、懈緩の間この儀に及ぶ。仍って改めて仲業に仰せ
  沙汰有るの処、穏田の実無し。この事は、自から孝尚が罪科に非ずと雖も、ただ不法
  の一事を咎め仰せられをはんぬ。但し穏田の実有らば、猶重過に処すべきの由、兼ね
  て思し食し儲けらるる所なり。本所の虚訴、併しながら孝尚の幸運たるか。向後事に
  於いて謹慎せしむべきの趣、廣元朝臣を以て仰せ含めらると。
 

12月10日 戊午
  和漢の間、武将の名誉有るの分御尋ね有るに就いて、仲章朝臣これを注出し献覧せし
  む。今日、善信・廣元等御前に於いて読み申す。また御不審を尋ね仰せらる。再三御
  問答の後、頗る御感に及ぶと。
 

12月13日 辛酉
  将軍家法華堂に御参り。恒例の御仏事有りと。
 

12月17日 乙丑
  相州知行の神社・仏寺、興行の沙汰に及ぶ。且つは申し入れらるの旨有り。日向の介
  これを奉行すと。
 

12月18日 丙寅
  御持仏堂に於いて観音講を始行せらる。隆宣法橋読式。管弦等有りと。
 

12月20日 戊辰
  和田左衛門の尉義盛上総の国司挙任所望の事、すでに余執を断ちをはんぬ。彼の款状
  を返し給うべきの由、子息四郎兵衛の尉を以て廣元朝臣に相触る。先日御前に進し置
  くの上、左右に能わざるの趣返答せしめながら、即ち以てこれを披露す。太だ御意趣
  に叶わず。暫く相待つべきの旨仰せ含めらるるの処、今この訴えに及ぶ。偏にこれ上
  計を軽んじ奉るが致す所なりと。
 

12月22日 庚午
  将軍家勝長寿院・永福寺等に御参り。これ歳末の恒規なりと。
 

12月25日 癸酉
  御持仏堂に於いて例の文殊供養有り。導師は葉上房律師栄西なり。廣元朝臣布施を取
  ると。
 

12月27日 乙亥
  明春、駿河・武蔵・越後等の国々大田文を作り整うべきの由、行光・清定に仰せらる
  と。
 

12月28日 丙子
  将軍家明年太一定分の御厄に相当たるに依って、今日御祈り等を行わる。葉上房律師
  栄西・定豪法橋・隆宣法橋等これを奉仕す。また親職・泰貞、天冑地府祭を勤む。武
  州これを沙汰し給う。