1211年 (承元5年、3月9日建暦元年 辛未)
 
 

11月1日 己酉 晴
  寅の刻太白房上將星(相去ること六寸ばかり)を凌犯するの由、司天等これを申す。
 

11月2日 庚戌
  小川法印忠快上洛す。民部の丞康俊の奉行として、御馬並びに駅路の雑掌等を遣わさ
  ると。
 

11月3日 辛亥 晴
  寅の刻、永福寺の惣門並びに塔婆一基(前の武蔵の守源の義信建立なり)焼亡す。他
  所に及ばず。戌の刻、天変の事に依って、御所に於いて泰山府君・歳星等の祭を行わ
  る。加藤判官光員これを沙汰す。清図書の允清定奉行たり。
 

11月4日 壬子 夜雨休み、暁風寒し
  申の刻、坊門黄門の使者参着す。これ勅勘の時、態と専使に預かる事、即ち賀し申す
  べきと雖も、行幸以下の公事連綿の間、遅々すと。去る月二十二日行幸。夜に入り、
  造朱雀門の大工国永已下番匠等使の廰を給う。本国司猶不日の功を終え、仮葺を営む
  べきの由勅定有りと。これ等の趣黄門の書状に載せらる。善信これを読み申す。これ
  に就いて将軍家尋ね仰せらるる事等有り。善信申して云く、この門末代に相応せざる
  か。その故は、通憲入道大内を営み、罪無くて斬罪に処す。治承大極殿・朱雀門焼亡
  す。建久九年僅かに彼の門を造る。造営の国務人(一條二品能保)父子即時に薨卒す。
  元久、後京極摂政殿額を書せしめ給う。御身頓滅す。今また造営上棟の後、病忽ち癒
  え、槐門に至る。御禊の間、また還御の時、御輿未だ建礼門に入らず。この門顛倒す。
  魏の文帝臨幸の日に当たり、離宮の南門壊ると。
 

11月16日 甲子
  尼御台所の御願として金銅の薬師三尊(三尺)像を供養せらる。導師は圓如房阿闍梨
  遍曜なり。この本尊は鶴岡神宮寺に安置せらるる所なり。
 

11月20日 戊辰
  将軍家貞観政要の談議、今日その篇を終えらる。去る七月四日これを始めらる。