1221年 (承久3年 辛巳)
 
 

8月1日 壬子
  坊門大納言忠信遠江の国舞沢より帰京す。これ今度合戦の大将軍たるに依って、千葉
  の介胤綱これを預かり下向す。而るに妹西八條禅尼は右府将軍の後室なり。彼の旧好
  に就いて二品禅尼に申すの間、宥める所なりと。

**[六代勝事記]
  忠信卿は、右府のよろこび申にくだりし時、駒をならべし道のひろさ、鷹かへりし袖
  のうへは、けふばかりはしぼらざりしかども、露けき事を思ひつづけてゆくほどに、
  いもうとの禅尼とかく申ゆるされにければ、はまなの橋よりぞかへりにし。
 

8月2日 癸丑
  大監物光行は、清久の五郎行盛これを相具し下向す。今日巳の刻金洗沢に着す。先ず
  子息太郎を以て案内を通ず。前の右京兆、早くその所に於いて誅戮すべきの旨その命
  有り。これ関東数箇所の恩沢に浴しながら院中に参り、東士の交名を註進し、宣旨の
  副文を書く。罪科他に異なるが故なり。時に光行の嫡男源民部大夫親行、本より関東
  に在り功を積むなり。この事を漏れ聞き、死罪を宥めらるべきの由泣く泣く愁い申す
  と雖も、許容無し。重ねて伊豫中将に属き申す。羽林これを伝達す。仍って誅すべか
  らざるの旨書状を與う。親行これを帯し、金洗沢に馳せ向かい父の命を救いをはんぬ。
  清久の手より小山左衛門の尉方に召し渡す。光行往年慈父(豊前の守光秀平家に與す。
  右幕下これを咎む。光行下向せしめ愁訴す。仍って免許す)の恩徳に報いるに依って、
  今日孝子の扶持に逢うなり。黄昏に及び、陸奥の六郎有時已下上洛す。人々多く以て
  下着すと。
 

8月3日 甲寅
  寅の刻、検非違使従五位下行左衛門少尉藤原朝臣景廉法師(法名覺蓮房妙法)卒す。
 

8月5日 丙辰
  上皇遂に隠岐の国阿摩郡刈田郷に着御す。仙宮は翠帳紅閨を柴扉桑門に改め、所はま
  た雲海沈々として南北を弁えざれば、雁書青鳥の便りを得ること無し。烟波漫々とし
  て東西に迷うが故なり。銀兎赤鳥の行度を知らず。ただ離宮の悲しみ・城外の恨み、
  増す増す叡念を悩まし御うばかりなりと。
 

8月6日 丁巳
  大夫屬入道善信老病危急にして、露命旦暮を知らず。仍って問註所執事を辞退するの
  間、男民部大夫康俊を以てその替わりに補すと。
 

8月7日 戊午
  世上無為に属く。これ二品禅尼の夢想に符合す。仍って所領を二所大神宮に奉寄す。
  所謂内宮御料は、後院領伊勢の国安楽村・井後村。外宮御分は、同領葉若・西園両村
  なり。祭主神祇大副隆宗朝臣に付く。藤原朝定彼の寄附状等を帯し、重ねて報賽の使
  節たりと。この外諸社同じく奉寄有り。鶴岡八幡宮御分は武蔵の国矢古宇郷司職(五
  十余町)、諏方宮御料は越前の国宇津目保と。叛逆の卿相雲客並びに勇士所領等の事、
  武州の尋ね註す分凡そ三千余箇所なり。二品禅尼件の没収地を以て、勇敢勲功の浅深
  に随い面々にこれを省き充つ。右京兆執行すと雖も、自分に於いては針を立てる管領
  納無し。世以て美談と為すと。
 

8月9日 庚申
  丑の刻、問註所散位従五位下三善朝臣康信法師(法名善信)卒す。年八十一。
 

8月10日 辛酉
  法橋昌明は、幕下将軍の時功有る者なり。今度の逆乱勅喚有りと雖も、その意巌の如
  く、曽て関東に乖かず。この事既に二品禅尼の聴に達するの間、昌明未だ子細を申さ
  ずと雖も、但馬の国守護職並びに庄園等の下文を成し、去る月遣わしをはんぬ。時に
  昌明弁えざるの以前、同月二十三日の状を以て、勲功の事を註し申す。その状今日鎌
  倉に到来す。二品禅尼これを被覧し、殊に感歎せしむ所なり。これ去る五月十五日洛
  中合戦以後、勇士を召聚するに及び、参洛すべき由の院宣を帯すの召使い五人、昌明
  の但馬の国の住所に来たり。昌明彼等の首を斬るの間、院中に参らんと欲するの国内
  の軍兵昌明を襲攻す。一旦これを防戦せしめ、深山に引き籠もり、武州上洛の由を聞
  き馳せ加うと。右京兆云く、華夷闘乱の間、将命を受け上洛せしめ、或いは箭に中た
  り或いは入水す。人毎の所為なり。世上の是非未だ治定せざるの時、院使を梟首する
  事、関東を重んぜしむるの條顕露す。他に異なる勲功なりと。
 

8月12日 [高野山文書]
**六波羅下知状
  高野山領紀伊国南部庄の事、近日事を武士に寄せ、本所の所堪に随わずと。事実なら
  ば太だ不便の次第なり。早く先例を守り、沙汰を致すべきの状、下知件の如し。
    承久三年八月十二日       武蔵守(花押)
                    相模守(花押)
 

8月15日 丙寅
  鶴岡の放生会延引す。天下大穢に依ってなり。祈祷等の賞を行うに依って、僧徒並び
  に陰陽道の輩多く以て恩沢を浴すと。
 

8月16日 [承久記]
  持明院宮も院に成居させ給ひて、世の政を我御心のままに行わせ給へり。末の宮にて
  まします上、出家の御身にて院号蒙らせまします。旁々目出度事なるべし。
 

8月19日 [東大寺文書]
**関東下知状
  伊賀国住人服部馬允康兼は、今度騒動の時節、京都使に随い、関東の御勢を仰ぎ、山
  に引き籠もると。忠節無きに非ず。早く当知行の所に於いては、本の如く安堵せしむ
  べきの状、仰せに依って下知件の如し。
    承久三年八月十九日
 

8月23日 甲戌
  中将實雅朝臣、去る月二十八日兼国の間、今日讃岐の国廰宣始め有り。例に任せ先使
  の雑色を以て国務五箇條を書き下す。民部大夫行盛これを奉行す。

[承久記]
  御幸始め。大臣殿へぞ成ける。高倉院の第二の宮にてましませば、安徳天皇の代を請
  取給ふべかりしに、思の外の事ども也。又、除目行はれて、宰相に家信・具実、蔵人
  頭に左中将伊平朝臣・右中弁資経朝臣、国司も二十二三箇国までぞなされける。
 

8月*日 [紀伊根来要書下]
**三浦義村添状
   早く守護所の沙汰を停止すべき高野山伝法院領紀伊国七箇庄の事、
  右、相模守殿・武蔵守殿の下知状に任せ、守護の入部を停止すべきの状件の如し。
    承久三年八月 日        駿河守平(義村在判)