1227年 (嘉禄3年、12月10日 改元 安貞元年 丁亥)
 
 

5月1日 己卯 霽
  六波羅の飛脚参り申して云く、去る月二十二日未の刻、土御門室町より失火す。南勘
  解由小路に至り、東風頻りに扇き、余炎大内に及ぶ。承久元年以来新造せらるる所の
  殿舎・門宇、悉く以て灰燼と為すと。
 

5月2日 戊辰
  造伊勢太神宮役夫・工米の事、諸国の飢饉、疲民合期の弁えを致し難きの趣奏聞すで
  にをはんぬ。勅答を待たるるの処、御杣の用途闕如に及ぶの由、使等愁訴の間、武州
  分駿河・伊豆両国の役等に於いては、出挙を召し御沙汰をはんぬ。利分に至らば、済
  物に募るべきの旨、今日使等に仰せらると。
 

5月8日 丙戌 晴
  将軍家御不例の後、御沐浴の儀有り。武州参り給うと。
 

5月10日 戊子 晴
  大内焼亡の事に依って、御使等上洛せしむ。将軍の御使は伊東左衛門の尉、武州の御
  使は尾藤左近将監なりと。
 

5月11日 己丑 晴
  未の刻地震。
 

5月14日 壬辰 霽
  高麗国の牒状到来す。今日披覧に及ぶと。その状の書き様、
   高麗国全羅州道の按察使牒す 日本国惣官太宰府当使
   彼の国に准じて対馬嶋人古来邦物を貢進し、歳々に和好を修む。また我が本朝もそ
   の所便に従い舘舎を持営し、撫するに恩信を以てす。これを用いて沿辺の州縣・嶋
   嶼の居民、前来の交好を恃みて疑忌する所無し。彼告ぐ、金海府は対馬人等旧住依
   するの処、奈何ぞや。丙戌六月に於いて、その夜寝に乗じて城竇より入り、正屋を
   奪掠しをはんぬ。この比すでに甚だし。また何辺の村塞も、擅便往来し、彼此一同
   に、無辜の百姓を侵擾することやまず。今は国朝上件の事を取問す。固より当職承
   存等二十人を差し、牒を晋めて前去す。且つは元来信奉する禮制も廃絶して行われ
   ず。船数結多して常の往来無く、悪事を作為す。これ何の因由ぞや。此の如きの事
   理を疾速に廻報せよ。右前事を具し須く日本国惣官に牒すべし。謹みて牒す。
     丁亥二月日牒
     副使兼監倉使転輪堤黙刑獄兵馬公事龍虎軍郎将兼三司判官趙判
 

5月23日 辛丑 霽
  播磨の国鵤庄内久岡名の地頭青木兵衛五郎重元沙汰を止めらる。当所の名主内藤右馬
  の允成国、去る承久三年逆乱の時官軍に交るの間、重元を以て地頭に補せらるるの処、
  本処法隆寺子細を申すに依って、この儀に及ぶ。当庄の事は、太子の御起請他に異な
  るの地なり。右大将軍の御時、御帰依有りて専ら興隆すと。去る十四日辰の刻、修理
  の亮(時氏)の北の方、六波羅に於いて男子平産の由、今日その告げ有り。また医師
  和気の清成彼の管領たるの処、無為の條、高名たるの由、内々武州の御方に申し入る
  と。