1227年 (嘉禄3年、12月10日 改元 安貞元年 丁亥)
 
 

6月1日 戊申 霽
  日蝕正現す(四分)。
 

6月7日 [百錬抄]
  土御門油小路に於いて、尊長法印を捜し出す。武士充満す。自害を企つと。承久以後
  七ヶ年隠居す。
 

6月8日 乙卯 雨下る
  大倉大慈寺の鐘鋳らるべきの由その沙汰有り。後藤左衛門の尉・清右衛門の志等これ
  を奉行す。
 

6月12日 己未 雨下る
  凡そ日来霖雨旬を渉る。所々洪水し、河辺の田畠等流失すと。
 

6月14日 辛酉 晴
  六波羅の馳駅下着す。申して云く、去る七日辰の刻、鷹司油小路大炊の助入道後見肥
  後房の宅に於いて、管十郎左衛門の尉周則二位法印尊長を虜らんと欲するの処、忽ち
  自殺を企つ。未だ死終わらざるの間、襲い到る所の勇士二人、彼の為疵を被りをはん
  ぬ。翌日八日、六波羅に於いて尊長すでに死去す。これ去る承久三年合戦の張本なり。
  日来肥後房の宅に隠れ置く所なり。また和田新兵衛の尉朝盛法師、先度搦め漏れると
  雖も、今日これを生虜ると。
 

6月15日 壬戌 晴
  伊藤左衛門の尉・尾藤左近将監等京都より帰参すと。
 

6月16日 癸亥 晴
  亥の刻白虹見ゆと。
 

6月17日 甲子 霽
  御所の乾角に納殿を立てらるべきの由その沙汰有り。而るに奉行人周防の前司申して
  云く、明日より、西は王相方なり。御方違え有るべきかと。但し西方に当たらざるか
  の由仰せ有り。仍って陰陽道に尋ね問わるるの処、各々丈数を積もり、申して云く、
  夜の御所より西行二十二丈八尺五寸・北行十六丈八尺、戌の方に入る事一丈五尺六寸
  八分。然れば西の鰭板の際より六丈これを相去り、立てらるるに於いては、御方違え
  無しと雖も憚り有るべからずと。
 

6月18日 乙丑 雨下る
  卯の刻、武蔵の次郎時實(武州二男、当腹、年十六)家人高橋の次郎(京高橋の住人
  なり)の為殺害せられ給う。傍輩両三人同じく害せられをはんぬ。この間、明日丈六
  堂供養たるべきに依って、群を成す御家人等競走す。爰に伊東左衛門の尉祐時の郎従
  件の高橋を虜り進す。即日腰越の辺に於いて斬刑に処せらる。縡の最中、甚雨沃ぐが
  如しと。辰の刻嶋津豊後の守従五位下惟宗朝臣忠久卒す。日来脚気の上、赤痢病に悩
  むと。晩に及び尾藤左近将監景綱遂に出家しをはんぬ。武蔵の次郎の乳母夫たるに依
  ってなり。
 

6月19日 丙寅 陰
  評議有り。丈六堂供養の事、武蔵の次郎の事に依って延引すべきの由治定すと。
 

6月24日 [百錬抄]
  山門の所司已下大谷の辺に群集す。法然上人の墓所を破却せらる。これ専修念仏の事、
  近日山門の訴え有り。彼の墳墓に於いては興盛の故と。但し遺骨に於いては、門弟等
  偸み掘り出し他所に渡すと。
 

6月30日 丁丑 晴
  御所寝殿の南面に於いて、六月祓いを行わる。晴賢これを奉仕す。石山侍従贖物役を
  勤む。周防の前司親實奉行たりと。