1227年 (嘉禄3年、12月10日 改元 安貞元年 丁亥)
 
 

8月1日 丁未 晴
  内藤左衛門の尉盛家法師黄泉に帰す(年八十九)。老病の上痢病に悩む。臨終正念と。
 

8月7日 終夜雨降る [明月記]
  宰相使奔り来たり云く、只今事切れ給いをはんぬ。聞くの後周章馳参す。
 

8月8日 朝天陰 [明月記]
  今日聞く、夜前葬送しをはんぬ。堂東山(瀧艮方と)。
 

8月10日 丙辰 霽
  納殿造畢の後、今日始めて御物等を納めらる。後藤左衛門の尉基綱奉行たりと。
 

8月12日 朝天間晴 [明月記]
  法眼過談の次いでに伝々の説、尊長法印の暦書日記、件の暦すでに関東に在り。有好
  の人々明鏡の如しと。大炊の助入道武士に預けをはんぬ。また遠江(酔郷)関東に留
  まりをはんぬ。適々京中の冥加か。高麗重ねて牒を送るの由巷説有りと。もしまた関
  東に持ち向かうか。
 

8月13日 己未 晴
  御祈りを始行せらる。助教師員奉行たりと。
   不動護摩(山口法眼)  歳星祭(晴賢)  太白星祭(晴職)
  今日申の刻京都の飛脚参着す。去る七日太政大臣家御台所赤痢病に依って御早世の由
  これを申す。将軍家の御外祖母なり。

[明月記]
  近辺の家々の郎等・雑人等群儀を成し結党す(強盗)。この殿の御辺に打ち入らんと
  欲す。その謀り洩れて、行兼、聟長親に告げ、すでに張本四人を搦め取ると。
 

8月15日 辛酉
  鶴岡放生会延引す。御軽服に依ってなり。
 

8月18日 甲子 晴
  匠作帰洛し給う。また江兵衛の尉能行使節として上洛す。彼の御早世の事に依ってな
  り。
 

8月30日 丙子 晴
  将軍家の御身に風疹出でしめ給うと。