1228年 (安貞2年 戊子)
 
 

2月3日 丁未 霽
  将軍家鶴岡八幡宮に御参り。御浄衣を着せしめ給う。先ず散位晴賢(衣冠)廊の車寄
  戸に参り、御身固めを勤む。石山侍従教定陪膳役に候す。その後御騎馬、南門より出
  御す。供奉人は武州・越後の守・駿河の守・大炊の助・駿河の前司・出羽の前司・町
  野民部大夫・後藤左衛門の尉(御劔を役す)・狩野籐次兵衛の尉(御調度を懸く)・
  籐内左衛門の尉・結城左衛門の尉・佐々木判官等なり(布衣・浄衣相交る)。また六
  位二十人直垂を着し帯劔せしめ、御駕の左右に列歩す。これ去る建保七年正月右府将
  軍御神拝の時、此の如き警固無きに依って事有り。向後は用意有るべきの由、兼日定
  めらるるが故なり。伊豆の国走湯山の専当参着す。去る夜子の刻、当山の講堂・中堂
  ・常行堂失火の為災す。俗躰は取り出し奉らず。同じく以て灰燼と為すと。常行堂は、
  去年冬の比相州の御沙汰として造営す。而るに孫子死去するの間延引す。未だその功
  を終えざるの処、また以て回禄す。直なる事に非ざるか。
 

2月4日 戊子
  今日、故下野大掾政光入道の妻の尼(網戸尼と号す)卒去す(年九十一)。これ八田
  武者所宗綱の女、左衛門の尉朝光の母なり。故右大将軍並びに禅定二位家殊にこれを
  重んぜしめ給うと。
 

2月7日 辛亥
  申の刻、将軍家の御衣鳶の糞懸けしめ給うの間、御占い有り。御病事の由これを申す
  と。
 

2月8日 壬子 晴
  二所の御精進始めなり。御参詣有るべきかの事、猶日来予儀有りと雖も、走湯山火災
  の事に依って留めしめ給うと。凡そ彼の火事に就いて、今朝條々評議等有りと。
 

2月13日 丁巳 快晴
  今朝、三浦駿河の前司義村二所奉幣の御使として進発すと。
 

2月14日 戊午
  御所に於いて御酒宴有り。信濃法印・大進僧都以下数輩祇候す。延年に及ぶと。
 

2月18日 壬戌
  駿河の前司二所より帰参す。往還風雨の難無しと。
 

2月19日 癸亥
  御所の南庭に於いて二十番の相撲を召し決せらると。その中、葛西三郎左衛門の尉召
  し進すの相撲二三俣平次三郎、殊なる達者なり。仍って周防蔵人を以て御衣を下賜す
  と。