1228年 (安貞2年 戊子)
 
 

3月3日 丙子 晴
  鶴岡の神事例の如し。将軍家御参宮。武州供奉し給う。
 

3月9日 壬午 霽
  将軍家始めて御浜出有り(由井浜)。密々桟敷に入御するの間、供奉の人々・路次の
  儀の如き、頗るこれを省略せらる。犬追物(三十疋)有り。三浦駿河の前司検見たり。
   射手
    相模の四郎 駿河の次郎      佐々木判官三郎 城の太郎
    武田の六郎 大須賀次郎左衛門の尉 小笠原の六郎  佐原の太郎
    氏家の太郎 佐々木の八郎     原左衛門の尉  横溝の六郎
 

3月10日 晴 [玉蘂]
  伝聞、陰陽頭安部泰忠朝臣関東に下向す。所領地法の如く訴訟すべきが故なりと。但
  し衰老病者の遠所の下向、人以て奇と為すか。件の朝臣関白の辺変々無く新大なり。
  而るに忽ち京都より辺域に下向す。定めて子細有るか。
 

3月13日 丙戌 霽
  今日、讃岐の国善通寺領の地頭職を停止せられをはんぬ。これ弘法大師御誕生の地な
  り。長日御祈祷を退けざるの砌なり。本仏は則ち大師御自作の釈迦・薬師像と。而る
  に近年地頭を彼の領に補せらるるの間、寺用闕如の旨疑状を捧げるに依って、殊にそ
  の沙汰有り。これを止めらると。
 

3月25日 戊戌(明日四月節) 晴
  今夜将軍家御方違えの為小山下野入道生西の宿所に入御す。御所より南方なり。これ
  御車宿を立てられんが為、王相方を避けしめ御う。相州以下扈従す。