1231年 (寛喜3年 辛卯)
 
 

6月1日 丙辰 霽
  武州御違例の事復本し給う。午の刻御沐浴と。
 

6月6日 辛酉
  海路往反の船、或いは漂倒、或いは難風に遭う。自然吹き寄せらるるの処、所々の地
  頭等寄船と号し左右無く押領するの由、その聞こえ有るに依って、先例たりと雖も、
  諸人の歎なり。自今以後停止すべきの由、諸国に仰せ遣わさるべきの旨、今日評議に
  及ぶと。
 

6月11日 [皇帝紀抄]
  祇園内常行堂の上に、餓死者出来するの間、築地の上を破らしめ取り棄つ。
 

6月15日 庚午 晴
  戌の刻由比浦の鳥居の前に於いて風伯祭を行わる。前の大膳の亮泰貞朝臣これを奉仕
  す。祭文は法橋圓全仰せを奉りこれを草す。これ関東に於いてその例無しと雖も、去
  る月中旬比より南風頻りに吹き、日夜休止せず。彼の御祈りの為、武州これを申し行
  わしめ給う。将軍家の御使は式部の進平内と。武州の御使は神山の彌三郎義茂なり。
  今年京都に於いてこの御祭を行わるるの由その聞こえ有り。在親朝臣勤行すと。
 

6月16日 辛未 霽
  今日風静まる。去る夜の風伯祭の効験の由その沙汰有り。泰貞朝臣御劔等を賜うと。
 

6月17日 [百錬抄]
  去る春より天下飢饉。この夏、死骸道に満つ。治承以後未だ此の如きの飢饉有らず。
 

6月22日 丁丑
  高野の法印(貞暁)去る二月二十二日入滅せられをはんぬ。その遺跡内府(實氏公)
  の若公に譲補し奉らるの由、文書等を相副え武州に申し送らるるの間、彼の領掌譲状
  に任せ相違有るべからざるの旨、今日評定有り。御下知を成さる。これ備中の国多気
  ・巨勢両庄、和泉の国長家庄、伊勢の国三箇山・山田野庄等なり。