1231年 (寛喜3年 辛卯)
 
 

7月2日 丙戌 天晴 [明月記]
  實持朝臣今夜来たり。五日の御拝賀資雅朝臣供奉すべきの由、殊に示し送るべきの旨
  仰せらるるの趣を示し送る。御拝賀何事やの由これを奏す。また云く、関白御慶なり。
  驚きながら馳参す。仰せに云く、今日この事定めをはんぬ。来五日殿下御上表、即日
  詔書拝賀なり。
 

7月5日 [百錬抄]
  関白上表。左府(教實)を以て関白と為す。即ち長者の印を渡す。
 

7月9日 癸巳 霽
  午の刻御台所御新車始めなり。駿河の前司義村の宅に渡御す。将軍家先ず入御す(御
  布衣・御車)。駿州の経営善を尽くし美を尽くす。伶人並びに舞女等を召し終日御遊
  興。暁鐘の期に臨み還御す。
 

7月11日 乙未
  二位家の御月忌。南小御堂に於いて仏事を修せらる。導師は求佛房なり。御台所渡御
  す。相州・武州参り給う。
 

7月15日 己亥 霽
  二位家の御追善。小御堂恒例の一切経会なり。両国司また以て詣で給う。
 

7月16日 庚子 晴
  今日京都の使者参着す。摂録を左府(御年二十二)に譲り奉らる。去る二日内覧の宣
  旨。五日夜に入り拝賀。これ知足院殿の例と。今月天下大飢饉、また二月以来洛中・
  城外疾疫流布し、貴賤多く以て亡卒すと。