1232年 (寛喜4年、4月2日 改元 貞永元年 壬辰)
 
 

4月1日 辛亥
  今日日蝕有るべきの旨、宿曜備中法橋これを申すに依って、御所を裹まるべきや否や、
  周防の前司親實を以て暦道に問う。各々日蝕有るべからざるの由これを申す。
 

4月2日 [皇帝紀抄]
  改元。変異に依ってなり。
 

4月4日 甲寅
  京都大番の事その沙汰有り。国中の地頭中、他国に居住せしむと雖も、先々勤め来た
  るの輩に於いては、代官を催し加え勤めしむべきの由、守護人等に仰せらると。
 

4月7日 丁巳
  新補地頭所務の間の事七箇條、その法を定めらると。
 

4月9日 己未
  法華堂西の護摩堂、去年十月二十五日焼亡の時回禄しをはんぬ。而るに御台所の御願
  として造らるべしと。仍って今日政所に於いて、信濃民部大夫入道行然の奉行として、
  件の堂御所より何方に当たるやの由その沙汰有り。陰陽師(泰貞・晴賢・宣賢)を遣
  わし方角を糺さる。夜に入り明火御所と法華堂とを往反す。両方これを窺い見る。丑
  方の分たるの由各々言上すと。
 

4月11日 辛酉 霽
  将軍家鶴岡八幡宮に御参り。御浄衣・御乗車。大夫判官基綱・祐時・祐政等供奉す。
  駿河の前司義村御劔を持つ。佐原三郎左衛門の尉御調度を懸く。宮寺に於いて八講を
  行わると。
 

4月12日 壬戌
  同宮に御参り。
 

4月13日 癸亥
  今日また御神拝。
 

4月14日 甲子
  同御参り。今日改元の詔書到来す。去る二日寛喜四年を改め貞永元年と為す。
 

4月15日 乙丑 晴
  将軍家去る十一日より今日に至るまで、鶴岡の上下宮に御奉幣。無為に遂げしめ給う
  と。
 

4月21日 辛未
  近日、都鄙に夜討ち・強盗蜂起するの由その聞こえ有るの間、守護人・地頭等の面々
  に仰せ、[見隠し、聞き隠しすべからざるの旨仰せ下さる。]
 

4月25日 乙亥 霽
  今暁太白鎮星を犯す(一尺六寸の所)。司天等勘文を献る。摂津の守これを執り申す。