1233年 (貞永2年、4月15日 改元 天福元年 癸巳)
 
 

4月1日 乙亥 天陰 [明月記]
  静俊の書状に云く、無動寺の悪徒また南谷に寄せ房三宇を切る。即時に南谷の衆また
  無動寺に寄せ、数刻合戦す(疵を承る者二十余人、死者両三人、無動寺六人疵)。
 

4月3日 [百錬抄]
  中宮職院号有り(藻壁門院と)。
 

4月4日 戊寅 天晴 [明月記]
  院号藻壁門と。殊に以て存外。故入道殿下仰せらるる旨有り。今これを用いらる。未
  の時ばかり金吾左京侍従相具し来たる。また小僧禅胤来たる(関東より帰洛すと。武
  士の歌を持ち来たる。厚縁の由を称すか)。
 

4月15日 己丑 霽
  隠岐三郎左衛門の尉京都より帰参す。去る月二十九日大殿春日詣で無為に遂げ御う。
  今月三日中宮院号(藻壁門)宣下の由これを申す。
 

4月16日 庚寅
  大風以前の出挙は、上下親疎を論ぜず、一倍を停止し、五把利を以て一倍たるべきの
  由定めらる。偏に諸国に下知せしめんが為、奉行人を差し定め、六波羅に注し遣わさ
  ると。
  一手 宗監物孝尚(十ヶ国)
     尾張、伊勢、伊賀、美濃、近江、若狭、摂津、河内、飛騨、越前
  一手 治部の丞宗成(九ヶ国)
     山城、丹波、丹後、但馬、因幡、出雲、石見、長門、伯耆
  一手 左衛門の尉明定(十一ヶ国)
     播磨、美作、備前、備中、安藝、伊豫、土佐、阿波、淡路、紀伊、和泉

[明月記]
  伝聞、年号、天福。式部大輔撰び申す所と。
 

4月17日 辛卯 霽
  将軍家並びに御台所武州の御亭に入御す。彼の東壺卯花・瞿麥等花盛んなり。仍って
  御連歌有り。相模三郎入道眞昭・式部大夫(政)・式部大夫親行・大夫判官基綱・都
  築の九郎経景等召しに応じ参上す。親行秀句を献るの間直に御劔を賜う。暁更に及び
  還御す。六位八人松明を取る。
 

4月23日 丁酉 霽
  改元の詔書到着す。去る十五日貞永二年を改め天福元年と為す。大蔵卿為長卿これを
  撰び進すと。