1233年 (貞永2年、4月15日 改元 天福元年 癸巳)
 
 

5月5日 己酉 晴
  鶴岡の神事例の如し。越後の守(束帯)奉幣の御使たり。今日端午節を迎え、御所に
  於いて和歌御会有り。題菖蒲を翫び郭公を聞く。陸奥式部大夫・相模三郎入道・源式
  部大夫・後藤大夫判官・伊賀式部大夫入道・波多野の次郎経朝・都築の九郎経景等参
  る。両国司披講の座に候し給う。

[明月記]
  去る夜陣口(坊門南・洞院西)親宰相(有親朝臣)の家群盗入る。宿直の者打ち合い
  追い反すと。帝闕の陣口猶以て此の如し。今朝鴨の水(一條末)溢れ人を渡さずと。
 

5月19日 癸亥
  在京の御家人乗車せしめ洛中を往返する事、また大内の旧跡を憚らず、内野を以て馬
  場に用いる事、旁々その恐れ有るに依って、停止すべきの由今日仰せ下さる。
 

5月22日 丙寅 朝天陰 [明月記]
  夜前より巷説に云く、禅閤事未だ切れ給わず。蘇生有るの間、午の時ばかりすでに以
  て定説と。今日また披露す。関東の遠江の守誅せらるると。制止に拘わらず京上し、
  途中に於いて害せらる。在京の時悪事・犯乱非例の人の故か(聟實任少将出仕の有無
  気色を為す。また虚言かと)。兼直宿祢送り出すの次いでに、八幡宮怪異の事、昨日
  御占いを行わる。(石清水八幡宮所司等言上す、去る十二日の注文。去る七日巳の時
  高良の御正体鳴動す。今日卯の時同社の御正体鏡二面重ねて鳴動・光耀の事は、これ
  何の咎祟に依って致す所や。天福元年五月二十一日)
 

5月24日 戊辰 晴
  去る七日子の刻、同十二日寅の刻、男山八幡宮甲良宮の御正体鳴動す。その声一山、
  また光有り東を指す。日月の如し。往昔よりこの恠無しと。別当幸清の注進状今日到
  来す。茲に因って御所に於いて御占いを行わるるの処、御怖畏有るべからざるの由、
  五人一同これを占い申す。
 

5月27日 辛未
  武州御所に参り給う。一封の状を帯し御前に披覧せらる。申せしめ給いて曰く、去る
  三月七日熊野那智浦より、補陀落山に渡るの者有り。智定房と号す。これ下河邊の六
  郎行秀法師なり。故右大将家下野の国那須野御狩りの時、大鹿一頭勢子の内に臥す。
  幕下殊なる射手を撰び、行秀を召し出し射るべきの由を仰せらる。仍って厳命に応ず
  と雖も、その箭鹿に中たらず、勢子の外に走り出る。小山四郎左衛門の尉朝政射取り
  をはんぬ。仍って狩場に於いて出家を遂げ逐電し、行方を知らず。近年熊野山に在り。
  日夜法華経を読誦するの由伝聞するの処、結句この企てに及ぶ。憐れむべき事なりと。
  而るに今披覧せしめ給う所の状は、智定同法に託し、武州に送り進すべきの旨申し置
  く。紀伊の国糸我庄よりこれを執り進し、今日到来す。在俗の時より出家遁世以後の
  事悉くこれを載す。周防の前司親實これを読み申す。折節祇候の男女これを聞き感涙
  を降らす。武州昔弓馬の友たるの由語り申さると。彼の乗船は屋形に入るの後、外よ
  り釘を以て皆打ち付け、一つの扉も無し。日月の光を観ること能わず。ただ燈に憑る
  べしと。三十箇日の程の食物並びに油等僅かに用意すと。

[明月記]
  千載集正本二十巻、孝行関東に於いて武士の手より買い取り、年来持つと。蓮花王院
  に於いて取るか。所納の手筥無しと。禅亭近日遊宴無しと。長衡子息等を率い経営す。
  饗禄を儲け光村・舞女十三人を招請す。仙楽歓娯の故、下人等披露す。またその故有
  るか。明後日下向すと。
 

5月29日 癸酉 天晴 [明月記]
  入道伊時卿家供三人群盗露顕す。武士来たり責む。盗逃げ去りをはんぬと。四位仲兼
  従者また皆悉く群盗と為す。武士これを責めると雖も、八條禅尼(関東右府後家)の
  家警固の者と称し出ざると(仲兼本より虎狼の野心有り。勇士を養う)。

[百錬抄]
  普賢寺入道摂政薨ず(年七十四)。終焉の時各々面謁有るべからず。中陰の中仏事を
  修すべからざるの由、兼ねて相定せらると。