1233年 (貞永2年、4月15日 改元 天福元年 癸巳)
 
 

8月2日 甲戌 終日陰 [明月記]
  当時南都に猫股と云う獣出来す。一夜に七八人を啖う。死者多し。或いはまた件の獣
  を打ち殺す。目猫の如く、その体犬の如く長しと。
 

8月9日 辛巳 天晴陰 [明月記]
  中務云く、宗行卿後家(宗氏等)周防乃宇美庄を憑む所、資経卿忽ち申し給い、宗氏
  世途を失う。母の尼時刻を廻らさず関東に馳せ下る。
 

8月15日 丁亥 晴
  鶴岡の放生会。将軍家御出で。民部少輔御劔を役す。佐々木太郎左衛門の尉御調度を
  懸くと。
 

8月16日 戊子 霽
  御参宮。馬場已下例の如し。
 

8月18日 庚寅
  早旦、武州江島明神に奉幣せんが為出で給うの処、前浜死人有り。これ殺害せらる者
  なり。仍って神拝を遂げ給わず、直に御所に参り給う。即ち評定衆を召し沙汰を経ら
  る。先ず御家人等をして武蔵大路・西浜名越坂・大倉横大路已下方々を固めしむ。途
  路に候し犯科者有るや否や、その内の家々を捜し求むべきの由仰せ下さるるの間、諸
  人奔走す。而るに名越辺の或る男直垂の袖を洗う。その滴血なり。恠しみを成し岩手
  左衛門の尉これを生虜り、相具し御所に参る。推問の刻、所犯の條遁れる所無し。こ
  れ博奕人なり。仍って殊にその業を停止すべきの由下知すと。