1235年 (文暦2年、9月19日 改元 嘉禎元年 乙未)
 
 

閏6月3日 甲午
  上野入道評定衆を辞し申す。これ短慮迷い易く、是非を弁えざるの間、意見を献らん
  と欲するに所無しと。武州仰せられて云く、五月初参、今月辞退、物騒の事かと。上
  州重ねて申して云く、初参の日即ちこれを辞し申すべきと雖も、眉目を子葉に貽さん
  が為、なまじいにその号に懸かり、一両月を渉りをはんぬ。今に於いては参勤し難し
  と。この上は許容有り。
 

閏6月15日 丙午
  明日立秋節に入る。明王院の御堂の瓦少々未だ葺かれざるの間、御方違えの為、越後
  の守の名越亭に入御有るべきの由、周防の前司親實・伊賀式部入道光西・摂津左衛門
  の尉為光等の奉行としてその沙汰有り。沙汰せらるるの処、儀有り俄にこれを止めら
  る。冬季に入り御方違え有るべしと。
 

閏6月20日 辛亥 [百錬抄]
  洛中馳走す。八幡の神輿已下宿院に御す。明日御入洛有るべしと。左少弁兼高御使と
  して馳せ向かいをはんぬ。神人等の訴訟六ヶ條なり。
 

閏6月22日 癸丑
  午の刻地震。
 

閏6月23日 甲寅
  将軍家馬場殿に渡御す。射芸を覧玉う。その次いでを以て大膳権大夫師員の屋形に入
  御す。即ち還御すと。御引出物等を献ると。

[百錬抄]
  両源大納言(定通・通方)御使として八幡宮に参らる。神人等猶承伏せずと。神輿震
  動の由風聞す。
 

閏6月24日 乙卯
  来八月の鶴岡放生会の舞楽の為、右近将監多の好節を召さる。但し公役指し合わざれ
  ば参向すべし。もしまた障り有らば、多の好継を差すべきの由、今日京都に仰せ遣わ
  さると。

[明月記]
  伝聞、信綱法師の子(ササキ次郎左衛門)神人を打ち殺す。山衆また犯乱すと。
 

閏6月27日 戊午 [百錬抄]
  今日、八幡の神輿帰座すべきの由沙汰有り。因幡の国寄附せらるべしと。去る二十日
  より数日宿院に御座す。希代の事なり。
 

閏6月28日 己未
  今日起請文の篇目を定めらる。所謂鼻血出る事・起請文を書く後の病事(但し本病の
  者を除く)・鳶烏の糞懸かる事・鼠の為衣裳を食わるる事・身中より下血せしむ事(但
  し楊枝を用いる時、並びに月水及び痔病等を除く)・重軽服の事・父子の罪科出来す
  る事・飲食の時咽ぶ事(但し背を打たるるの程、定めて失すべきを憚るか)・乗用の
  馬斃れる事、已上九箇條、これ政道に於いて無私を以て先と為す。而るに事を論ずる
  に疑い有り。是非を決するに論無し。故に神道の冥慮に仰ぎ、犯否を糺さるべしと。
  信濃左衛門の尉行泰・図書の允清時・清判官清原季氏等の奉行としてこれを申し沙汰
  すと。

[百錬抄]
  神輿帰座すと。
 

閏6月29日 庚申 朝天陰 [明月記]
  南都の訴えまた以て強盛す。すでに圓経房の住を切る由を聞くと。武士等多く南都の
  不当を存ず。もし発向を距すに及わば、悪徒の所行等、向後大事に及ぶか。不便の由
  且つは歎く輩有るの上、御成敗多く南都を優ぜらるる由これを存ずと。
 

閏6月30日 辛酉 [明月記]
  或る人云く、薪・大炭庄両庄また闘諍するの間、権別当等召し上げらるると。修羅の
  闘諍別儀か。南京・叡山また蜂起す。白山(加賀)、また神輿京上す。座主宮を擲入
  すべしと。