1235年 (文暦2年、9月19日 改元 嘉禎元年 乙未)
 
 

7月2日 癸亥
  所職・所帯並びに堺相論の事、非拠たらば所領を召さるべし。所領無くば罪科に処せ
  らるべきの旨、両方請文を召し取るの後、糺明すべきの由定めらる。且つは六波羅に
  仰せらると。
 

7月5日 丙寅
  永福寺の惣門上棟の間、将軍家御出で(御車)。相州・武州供奉し給う。この門去る
  寛喜三年十月二十五日炎上す。その後新造の時、丙日を用いらるるの條、頗るその難
  有るの由嫌い申すの輩有りと雖も、造られをはんぬ。黄昏に及び還御す。
 

7月7日 戊辰
  近江入道虚仮賜う所の承久宇治河先登の賞、神社等に付けらるるの間、今日その替わ
  りの沙汰有り。御下文を成さる。殊なる勲功たるに依ってその詞を載せらる。
   将軍家政所下す 尾張の国長岡庄住人
    補任 地頭職の事
     前の近江の守信綱法師
   右の人、承久兵乱宇治河鋤鋒の勧賞豊浦庄の替わり、彼の職たるべきの状、仰せの
   所件の如し。以て下す
    文暦二年七月七日       案主左近将曹菅原
                   知家事内舎人清原
    令左衛門少尉藤原
    別当相模の守平朝臣
      武蔵の守平朝臣
 

7月8日 己巳
  資俊・晴賢等天文の事に就いて相論す。訴陳に及ぶ。その状今日外記大夫倫重御所に
  読み申す。相州・武州候せらると。
 

7月10日 辛未 雨降る。夜に入り雷鳴・甚雨
  鎌倉中洪水。人屋の流失・山岳の頽毀、勝計うべからず。
 

7月11日 壬申
  将軍家小御所の端に出御す。世上の御雑談に及ぶ。陸奥式部大夫・木工権の頭仲能・
  周防の前司親實・小野澤蔵人・籐内判官定員・隠岐五郎左衛門の尉行賢・施薬院使良
  基・大蔵権大輔晴賢・大監物文元・掃部大夫資俊等祇候す。仰せに曰く、各々心中面
  白く、また心に染めるの事、凡そ注し申すべしてえり。面々の妄念これを書き進す。
  定員これを読み申す。雅意の趣皆同じと云うこと莫し。興有り感有り。また頤を解く
  事多く相交ると。
 

7月18日 己卯 霽
  故御台所周関の御仏事なり。未の刻新阿弥陀堂に於いて曼茶羅供を行わる。大阿闍梨
  助法印厳海・相州・武州以下人々詣で給う。また御旧跡(故二條殿御亭)に於いて、
  同じく御仏事を修せらる。その外の人々、方々に於いて多く御追善を励むと。この御
  仏事日次の事、日来沙汰有り。広く陰陽道に尋ね下さるるの処、忠尚朝臣以下の申状
  区々なり。吉日無きに依ってなり。而るに勘解由次官知家、今日たるべきの由計り申
  す所なり。陰陽道の輩に於いては猶以て傾け申すと雖も、遂にこれを用いられをはん
  ぬ。
 

7月23日 甲申
  六波羅に仰せらる條々の事、先ず京都の刃傷殺害人の事、武士の輩として相交るに於
  いては、使の廰の沙汰たるべし。犯過断罪の事、夜討ち強盗の張本として所犯相違無
  くば、断罪にせらるべし。枝葉の輩は関東に召し進し、夷嶋に遣わさるべきなり。次
  いで同じく大番の事、次第を定めらるるの処、替番衆遅々するの間、前番衆の勤仕、
  一両月を超ゆ。遅参せしむ輩は、二箇月勤入すべきなりてえり。また都鄙の間急事有
  るの時、相互に立てる所の飛脚、早速の為、路次往返の馬を取り騎用するの條、人の
  愁う所なり。向後は乗馬以下の事を駅々に構うべきの由、今日定めらると。

[百錬抄]
  日吉の神輿すでに以て入洛す。武士に仰せ相禦がるるの間、飛轢の為官兵多く打ち損
  ぜらる。法に任せ懸け合うの刻、近衛院(法成寺巽角)に於いて、宮仕法師多く疵を
  被る。或いは切り伏せられをはんぬ。各々神輿を棄て、衆徒に於いては河原より逃散
  す。洛中の騒動なり。江州守護人信綱法師息左衛門の尉高信、高嶋郡に於いて神人に
  刃傷するの間、建久の例に任せ死罪に行わるべきの由、山門訴え申すが故なり。
 

7月24日 乙酉
  念仏者と称し黒衣を着るの輩、近年都鄙に充満し、所郡に横行す。宣旨度々に及ぶと
  雖も未だ対治せられず。重ねて宣下せらるべきの由、京都に申さるべしと。また石清
  水神輿の事その沙汰有り。これ八幡宮寺と興福寺と確執の事、御使を遣わさるべきの
  由、去る五月両方に仰せらるるの処、その左右を待ち奉らず、同六月四日南都の衆徒
  薪庄に押し寄せ、在家六十余宇を焼き払いをはんぬ。宮寺勅裁を仰ぐべきの処、同十
  九日俄に神輿を宿院に渡し奉るの間、子細を尋ね問われんが為、季継宿祢を遣わさる
  ると雖も、問答に及ばず、剰え神人等史生為末を凌礫せしめをはんぬ。然る後解状を
  捧げ條々の勅許に預かると。仍って宮寺の嗷訴旁々然るべからざるの由、今日沙汰有
  り。別当成清法印に仰せ遣わさる。併しながら因幡の国を寄進せらるるに依って、神
  輿の入洛を留め奉りをはんぬ。無道の濫訴に就いて、非分の朝恩に浴すてえり。諸山
  ・諸寺の濫行断絶すべからざるに依って、世の為人の為始終不快の事、関東より爭か
  計り申されざらんや。自今以後もし輙く神輿を動かし奉らば、別当職を改補せらるべ
  きの由奏問せらるべし。余所の衆徒に於いては、貫首の命ずる所に背き、ややもすれ
  ば蜂起の事出来せんか。当宮の神人に至りては、別当の免許非ざれば、何ぞ無道の濫
  行を致さんや。兼ねて以て存知べきの由と。
 

7月27日 戊子 晴
  竹の御所の姫君、相州の御亭に於いて御除服の儀有り。今日六波羅の飛脚参着す。こ
  れ近江入道虚仮の子息次郎左衛門の尉高信日吉の神人を殺害するの間、山徒日者欝訴
  に及ぶと雖も、聖断の遅々を称し、去る二十三日日吉三社の神輿を振り奉る。勅旨を
  承るに依って、勇士等を近衛河原口に差し遣わし、留め奉らんと欲するの間、武士・
  衆徒互いに疵を被る者これ多しと。その濫觴を尋ねらるるに、近江の国高嶋郡散在の
  駕輿丁神人六十六人と。而るに山門の計として、彼の神人の内七人を改め、公役勤仕
  の百姓を以てその替わりと為す。これに依って地頭虚仮新儀を止め、復旧せらるべき
  の由、奉行人親厳律師に問答す。左右未だ落居せざる以前、急事有り関東に参りをは
  んぬ。而るを高信先ず勢多橋の行事として行き向かう。所役を催促するの時、新神人
  等対捍を為す。兼ねて宮仕法師に語り置くに、住宅に於いて高信の使者に拏獲し喧嘩
  に及ぶと。

[百錬抄]
  左衛門の尉高信遠流に処せらるべきの由仰せ下さる。山門頗る落居すか。
 

7月29日 庚寅
  去る二十三日台嶺の衆徒三社(十禅師・客人・八王子)の神輿を花洛に動かし奉る。
  これ近江の国高嶋郡田中郷の地頭佐々木次郎左衛門の尉高信の代官と日吉社人等と闘
  乱を起こすが故なり。而るに神輿入洛の時、例に任せ官軍相禦ぐの間、宮人疵を被り
  死悶に至るの由、これを訴え申すに就いて、彼の刻先陣の輩の中、右衛門の尉遠政・
  兵衛の尉遠信等、流刑せらるべきの由定めらるるの上、高信を鎮西に配流すべきの由、
  六波羅に仰せ遣わさるる所なり。神輿の入洛先規有りと雖も、今度の次第に於いては、
  殆ど上古の狼藉に超ゆ。仍って張本を召し出され、後昆を誡められんが為、殊なる重
  科に非ずと雖も、先ず御家人等に於いては、山徒の欝陶に任せ、所当の咎に処せらる
  と。その篇條々の沙汰有り。奏聞せんが為、今日御教書を二條中納言(忠高卿)に遣
  わさる。田中郷地頭高信の代官と住民と喧嘩の事、先日重時・時盛事の由を注し下す
  の間、両方に糺され御沙汰有るべきの由、貫首に言上しをはんぬ。更にこれ高信を優
  恕するの儀に非ず。高信罪科候わば、爭か炳誡を加えざらんや。神人の訴訟連々の処、
  是非を糺明せざれば、傍輩勝ちに乗り、濫訴絶ゆべからざるに依って、その趣を申せ
  しむばかりなり。以上。次いで衆徒に於いては、且つは聖断に仰ぎ、且つは関東の左
  右を相待つべきの処、忽ち神輿を動かし天聴を驚かせ奉るの條、理不尽の悪行、不可
  説の次第に候。張本に至らば、早くその身以下を召し出さるべきの趣これを載せらる
  と。