1237年 (嘉禎3年 丁酉)
 
 

7月8日 丁巳
  江左近次郎久康の申請に就いて、神楽の歌曲を久康に授けしむべきの旨、御教書を左
  近将監中原景康に遣わさる。これ鶴岡の御神楽の為なり。
 

7月10日 己未
  神楽曲久康に授くべき事、景康領掌の請文を進すと。
 

7月11日 庚申 晴
  二位家十三年の御忌景なり。南小御堂に於いて御仏事を修せらる。導師は東北院僧正
  圓玄。将軍家御出無し。匠作・京兆参り給う。大夫判官景朝(平礼、茶染の狩衣)奉
  行たり。御堂西の大床に候す。
 

7月17日 朝間雨降る、午後晴 [玉蘂]
  この日宣陽門院・鷹司院入内。これ母儀に准えらるるなり。故院御存日に、主上御猶
  子の義たるべきの由を申さる。宣陽門院領状を申さる。但し遺跡の事は鷹司院に申し
  付けをはんぬ。彼の女院を以て母儀に准ぜらるべしと。
 

7月19日 甲午
  北條の五郎時頼始めて来月放生会の流鏑馬を射らるべきの間、初めて鶴岡の馬場に於
  いてその儀有り。今日武州これを扶持せんが為流鏑馬屋に出らる。駿河の前司以下の
  宿老等参集す。時に海野左衛門の尉幸氏を招き子細を談らる。これ旧労の上、幕下将
  軍の御代、八人の射手の内たり。故実の勘能人に知らるるが故か。仍って射芸の失礼
  を見て、諷諫を加うべきの旨、武州これを示さる。射手の躰尤も神妙なり。凡そ生得
  の勘能たる由、幸氏これを感じ申す。武州猶その失を問わしめ給う。縡再三に及び、
  幸氏なまじいに申して云く、箭を挟むの時、弓ヲ一文字ニ持たしめ給う事、その説無
  きに非ずと雖も、故右大将軍家の御前に於いて、弓箭の談議を凝らさるるの時、一文
  字ニ弓ヲ持ツ事、諸人一同の儀か。然れども佐藤兵衛の尉憲清入道(西行)云く、弓
  ヲハ拳ヨリ押立テ引くべきの様ニ持つべきなり。流鏑馬、矢ヲ挟むの時、一文字ニ持
  つ事ハ非礼なりてえり。倩々案ずるに、この事殊勝なり。一文字ニ持ちテハ、誠ニ弓
  ヲ引いテ、即ち射るべきの躰ニハ見えず。聊か遅キ姿なり。上ヲ少キ揚げテ、水走り
  ニ持つべきの由ヲ仰せ下さるるの間、下河邊の行平・工藤の景光両庄司、和田の義盛
  ・望月の重隆・藤澤の清親等三金吾、並びに諏方大夫盛隆・愛甲の三郎季隆等頗る甘
  心す。各々異議に及ばず承知しをはんぬ。然かればこれ許ヲ直さるべきかてえり。義
  村云く、この事この説を聞かしめ思い出しをはんぬ。正に耳に触れる事候キ、面白く
  候トと。武州また入興す。弓の持ち様、向後この説を用ゆべしと。この後閑師を閣き、
  一向弓馬の事を談らる。義村態と使者を宿所に遣わし、子息等を召し寄せこれを聴か
  しむ。流鏑馬・笠懸以下作物の故実、的草鹿等の才学、大略淵源を究む。秉燭以後各
  々退散すと。
 

7月23日 [玉蘂]
  今日摂政第一度の上表と。
 

7月25日 庚子
  北條左親衛潛かに藍澤に赴く。今日始めて鹿を獲る。即ち箭口餅を祭る。一口は三浦
  の泰村、二口は小山の長村、三口は下河邊の行光と。
 

7月29日 戊寅 晴
  明年御上洛の事御沙汰を経らる。今日京都の使者参着す。去る十七日鷹司院御入内。
  これ御准母の儀なりと。